ハンク・アーロン氏が戦ったもの 貧困を乗り越えて人種差別とも戦った86年の生涯

2021年01月23日 09:13

野球

ハンク・アーロン氏が戦ったもの 貧困を乗り越えて人種差別とも戦った86年の生涯
ブレーブスの本拠地「トゥルーイスト・パーク」の前にファンが捧げたボール(AP) Photo By AP
 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】アラバマ州南部の港湾都市、モービル出身。「きょうだい」は7人いた。野球はやりたかったが貧乏で道具は買えない。だから瓶のフタがボールだった。ゴミが散乱するストリートにあった廃材でバットを作る…。22日に86歳で亡くなったハンク・アーロン氏の少年時代はそんな毎日だったと言う。
 地元の高校に入学したが、経済的な理由を抱えたゆえに15歳で当時ブルックリンに本拠を置いていたドジャースの入団テストを受けたが不合格。ジャッキー・ロビンソンが人種の壁を打ち破ってそのドジャースでメジャー・デビューした2年後の出来事だった。

 高校時代に地元の黒人のセミプロチームとプロチームでプレー。最初の“日当”は1試合でたった3ドルだった。昇給しても月額200ドル。1950年代初頭の米国に、黒人選手が活躍できるスポーツの舞台はきわめて限られていた。

 1977年9月3日。コアな昭和の世代を生き抜いた人ならみんな覚えているだろう。後楽園球場で巨人の王貞治氏(80)がアーロン氏が保持していた大リーグの通算本塁打記録を超える756号を放った1日。米国では“世界記録更新”とする風潮はなかったが、アーロン氏が王氏の記録達成を祝福したことを、この偉業のひとコマにとして記憶している方も多いのではないだろうか?(私もその1人だ)

 しかし1974年4月8日。ブレーブスの主砲だったアーロン氏がベーブ・ルース(元ヤンキース)の大リーグ本塁打記録を打ち破る715号を放つまで、彼のもとに何度も脅迫状が送られてきたのは有名な話だ。白人と黒人…。人種差別という憎悪はスポーツの世界にもまだ色濃く表れていた。

 人格者だった。その後、ブレーブスの主力となるチッパー・ジョーンズ氏(48)は「超越していたのは選手だけでなく人間としてもだった。アメリカの歴史の中で特筆すべき人物」と語り、バラク・オバマ元大統領(59)は「物事を先導していくことにちゅうちょはしなかった。高くそびえていた存在。それでいて出しゃばることもなく、控え目な人だった」とアーロン氏の人柄を紹介している。

 ジョージ・ブッシュ元大統領(74)の追悼コメントが印象的だった。ブッシュ元大統領はかつてレンジャーズの共同オーナーでもあった大リーグの実務面での経験者。「彼は自分が向かいあった憎悪を決して自分の心の中には取り込まなかった」。そのポリシーは“ルース超え”のときにもしっかりと心に根付き、そして自分の記録が抜かれたときにはそれまで受け続けていた山のような憎悪をすべてやさしさに変えて日本に届けていたように思う。

 AP通信によればアーロン氏は今月に入って新型コロナウイルスのワクチンを接種し、自らが行動を起こすことによって社会に啓蒙活動を行っていたのだと言う。「私がやっていることは小さなことかもしれないが、それが多くの人の命を救うことになる」と最後まで誰かの背中を押そうとしていた人生。あの有名な715号のホームランボールをアトランタ・フルトンカウンティー・スタジアムの左翼後方にあったブルペンでキャッチしたリリーフ投手のトム・ハウス(73)氏はこう語っている。

 「ハンクが重荷を振り払うかのように、ひたすらスイングを繰り返すのを僕らはずっと見ていた」

 その重荷の中身を本当に知っているのはアーロン氏本人だけかもしれない。しかしその生き方は多くの人に影響を与え、今もなお豪快なスイングとともに心の中にとどめられている。ストリートで入手した材料でボールとバットを作っていた元野球少年。想像を絶する貧困の中にあって最後まで夢をあきらめなかった不屈の闘志に拍手を送りたい。真のスーパースターとはこういう人の事を言うのだと思う。

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には7年連続で出場。還暦だった2018年の東京マラソンは4時間39分で完走。

おすすめテーマ

2021年01月23日のニュース

特集

野球のランキング

【楽天】オススメアイテム
`; idoc.open(); idoc.write(innerHTML); idoc.close(); });