【内田雅也の追球】野球少年の掛け声に思う 忘れてはならない、震災の記憶と夢

2022年01月17日 08:00

野球

【内田雅也の追球】野球少年の掛け声に思う 忘れてはならない、震災の記憶と夢
団地の中にある野球場。少年野球チームが練習を行っていた Photo By スポニチ
 いま住んでいる家が建っている場所はかつて、阪神・淡路大震災の災害復興住宅があった。自治体の震災アーカイブでプレハブの仮設住宅が軒を連ねる写真を見たことがある。家をなくした人びとの、明日を夢見る生活があったのだ。
 「そやから、新しい家が建ったとき、復興の思いがしたものですよ」と、長く隣のマンションに暮らすお年寄りが話していた。西宮市の南、阪神のファーム施設がある鳴尾浜に近い。

 朝、散歩に出た。あの日から27年を迎えようとしている。忘れてはいけないとの思いで歩いた。

 近所の団地の中、高層住宅に囲まれて、小さな野球場がある。少年野球チームが練習していた。

 この少年野球場では毎年1月に小さな大会が開かれている。阪神・淡路大震災の翌年、1996年に始まり、今も続いている。大会創設者は「震災から立ち直ろうとする地域の人びとに、少しでも元気と勇気を与えたい」と、近隣のチームに声をかけて始まった。開会式では毎年、震災で犠牲になった方々へ、黙とうをささげる。こうして、野球少年たちは震災の記憶を引き継いでいく。

 散歩は軟式野球、軟式テニスの試合が行われていた鳴尾浜臨海公園を通り、阪神の鳴尾浜球場に着いた。当時、この鳴尾浜も大変だった。独身寮「虎風荘」にいた安達智次郎さんを思い出す。

 実家は神戸・長田。最も被害の大きな地域だった。あの1995年1月17日の朝、テレビで燃えさかる町を見て、安達さんは向かった。車で向かったが、すぐ近くの陸橋が崩れて通れず、寮に戻って自転車で向かった。

 道中で幾度も倒壊した家屋の下敷きになった人々を救い出した。引き出そうとしたが相手の手の力が抜けていき、亡くなっていった女性もいた。長田に着くと友人6人に叔母も亡くなっていた。

 「命の尊さを知った」と話していた安達さんも既にこの世にいない。2016年1月7日、肝不全で41歳で他界した。

 神戸村野工からドラフト1位で入団した安達さんは現役引退後、打撃投手となり、2003年からは神戸・三宮でバーを経営しながら、少年野球の指導を行っていた。「夢は今でもプロ野球選手なんです。僕は1軍登板がなかった。だから今も追いかけています」

 帰り道。団地の中に野球少年の掛け声が響いていた。震災の記憶と夢を胸に刻む。忘れてはならない。 (編集委員)

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