「ビルマの竪琴」…市川崑監督が死去
2008年02月13日 19:22
芸能
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1948年「花ひらく」で監督デビュー。東宝で都会派の風刺喜劇を撮った後、日活で「ビルマの竪琴」(56年)を撮影し、ベネチア国際映画祭でサン・ジョルジョ賞。大映に転じ「鍵」「野火」「おとうと」など文芸作品を映像化した。
旺盛な実験精神と独特の撮影技法が発揮されたのが65年の「東京オリンピック」。記録か芸術かと議論を呼んだが、海外の映画祭では高い評価を受け、記録映画に大きな影響を与えた。
一作ごとにスタイルを変え、独立プロでの「股旅」、大作「細雪」などに取り組む一方、テレビの「木枯し紋次郎」などで斬新な映像美とさえた演出を見せた。
「犬神家―」「獄門島」など金田一耕助シリーズでも人気を集めた。高倉健主演の「四十七人の刺客」、四騎の会でともに活動した黒沢明監督らとの共同脚本を映画化した「どら平太」、岸恵子さん主演の「かあちゃん」など、長く一線で活躍。30年前と同じ脚本でリメークした「犬神家の一族」(06年)が最後の撮影作品となった。
くわえたばこに毛糸の帽子がトレードマーク。二人三脚で映画を作ってきた脚本家で妻の和田夏十さんが亡くなった後も「映画は天職」と語り、衰えぬ創作意欲と実直な人柄で尊敬を集めた。94年に文化功労者。
▼俳優・三国連太郎の話 (市川)崑さんとの一番大きな仕事は、何と言っても「ビルマの竪琴」で、僕がきょう、こうしていられるのもこの作品のおかげ。モダンなセンスの持ち主で、いったん決めたことは譲らない骨のある人だった。年齢は少し上だったが、仕事の上では同世代のような感覚だった。あんな監督は二度と出てこないと思う。
▼俳優・役所広司の話 「あんたの映画、(もう一度)撮るまではまだ死ねんからなあ」と、東宝スタジオで言われた時のことを思い出します。「これは誰々、これは役所くん」などと楽しそうに企画の話をしていたと聞き、悲しくて仕方ありません。偉大な監督でした。実は昨夜、監督がちょうど亡くなる時間になぜか、(私が出演した)「どら平太」の時に監督にいただいた絵コンテを眺めていました。残念です。
▼映画評論家・佐藤忠男さんの話 努力家であり、才気が有り余っている人でもあった。「野火」のようなリアリズムから大衆的なエンターテインメントまで、あれだけ多彩な才能を発揮した監督は、日本映画史上、ほかにいない。横溝正史作品などの娯楽作でも、しゃれていて、気が利いていて品がよかった。風俗喜劇的なものは、他にはまねのできない市川さんの境地だったと思う。