佐村河内氏 これが18年の真実?「新垣さんは私を甘く見ていた」
2014年03月08日 05:30
芸能
(新垣氏が)「もうこんなことやめにしよう」と言ったなんて全くのウソです。新しいコンセプトを思いつき、楽曲作ろうとするとき、新垣さんは新宿の喫茶店で「次も曲作りたい」と話して、私が最初にギャラを提示しても、間違いなく首を振る。値段をつり上げると顔を渋くして“う~ん”と言う。その後、もう少し値段を上げると笑顔で“いいですよ”と。これが18年の真実です。本当に心からやめようと思った人の発言でしょうか。雑誌を見て、私は目を疑いました。
(17分間しゃべり通した後、質問を受ける)
――自身の名義で発表された曲の著作権は?新垣氏は放棄すると主張しているが。
いま、新垣さんが何を思われているか分からない状態。
――今後も著作権を主張し続けるか?
それは、とても難しい。新垣さんは私が設計図を立てるのに心を砕いた「交響曲第1番」について、「実験的なもの」とか「宇宙戦艦ヤマトだ」とか…ゴーストライターとして信頼していたのに、そのようなことを言われショックを受けた。「ヴァイオリンのためのソナチネ」のような有名になった曲は自分の曲と主張されている。きちんと(私の)設計図に基づいていたにもかかわらず、「私の傑作です」とおっしゃっているのが疑問です。
――どういう思いで18年仕事を続けたか?
新垣さんは私を甘く見ていた。「佐村河内は絶対に私がバラさないと思っていた」と話していたが、そんなことはない。私自身がテレビに取り上げられて、どんどん大きくなって恐怖を覚えていた。いつかバレるんじゃないかと思った。10年後にやめて、撤退しようという思いでいた。新垣さんからは(騒動の一端となった)「新潮45」を読んで「怖くなったからやめましょう」と言われた。日本コロムビアさんから「次の作品を」と要望があったので、あと2つの曲だけお付き合い願えないかという話をした。3年に1曲ということであと2曲で引退しようという気持ちでいた。
――罪の意識は?
(しばらく間を置いて)ありました。