水木しげるさん死去 93歳 「鬼太郎」生んだ“妖怪の父”逝く
2015年12月01日 05:30
芸能
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妻の武良布枝さん(83)は30日午後4時すぎ、自宅前で沈痛な面持ちで「悲しいです。(最後の言葉は)アイコンタクトだけでした」と語った。長女の原口尚子さんは「意識が戻り、元気になる感じだった」と話した。午後6時半すぎ、白い布に包まれた水木さんの遺体が運び込まれると、家の中からは嗚咽(おえつ)が漏れ聞こえた。
水木さんは不死身の人だった。昨年12月に心筋梗塞で倒れたものの、今年2月には退院し、体調も徐々に回復。以前からスポニチ本紙が提案していた、若者に人気のメニューを味見するグルメ企画についても、担当者が「体調が上向いてきたので、先生も楽しみにしていた企画ができるのでは」と言っていたほどだった。
太平洋戦争時、パプアニューギニアで左腕を失った。部隊は全滅。生き残ったのは1人だけだった。復員後は職を転々とし、貧困に苦しみながら、紙芝居作家、貸本漫画家を経て漫画家として独り立ちしていった。
1960年に発表した代表作「ゲゲゲの鬼太郎」は、怖いはずの妖怪をユーモラスに描き、人気キャラクターにした。一方で、妖怪には、自然環境を破壊する現代社会への批判も込めた。そこに描かれた妖怪は、実際に戦争を体験し、戦後の貧困を味わった自身の分身でもあった。
ずる賢い悪役の「ねずみ男」に対して、どこか憎み切れない味を残すなど、つくりあげた個性的なキャラクターたちは戦中、戦後の苦難の時代に培った人間観察から生まれた。それは、作詞したアニメの主題歌の「お化けにゃ学校も、試験も何にもない」という歌詞にも込められ、受験戦争に疲れた子供の共感を呼んだ。
生涯を通し描き続けたのは戦争への警鐘。「戦争を描くのは重くつらい」と言いながらも、自らの体験を反映した「総員玉砕せよ!」などの作品を発表した。
出身地、鳥取県境港市を人気観光地にすることにも貢献。布枝さんのエッセー「ゲゲゲの女房」は10年、NHK連続テレビ小説でドラマ化され大ヒット。“妖怪の父”は漫画界を超えて広がった。
葬儀は近親者で行い、後日、お別れの会を開く。喪主は妻の布枝さん。
◆水木 しげる 1922年(大11)3月8日、大阪生まれ。生後間もなく鳥取県境港市へ転居。絵が得意で、13歳で個展を開いたほど。復員後、武蔵野美術学校(現武蔵野美術大)に入学し2年で中退。51年、神戸市でアパート「水木荘」を経営しながら紙芝居作者になる。アパート名は水木通にちなんでおり、ペンネームになった。54年、3歳だったおいっ子をモデルに紙芝居版「墓場鬼太郎」を生み出した。91年紫綬褒章、03年に旭日小綬章。10年には文化功労者に選出。