「真田丸」大坂編総括 信繁は「首相秘書官」秀吉との心の交流が伏線に
2016年08月06日 08:10
芸能
天正13年(1585年)、真田が上田城で徳川の大軍を迎え撃った「第1次上田合戦」。真田勢は2000の兵ながら、7000の兵を擁した徳川勢に圧勝した。一方、本能寺の変の後、織田家中を掌握した豊臣秀吉(小日向)は各地の大名に忠誠を誓うよう、上洛を求めた。真田信繁(堺)は、上洛を決めた上杉景勝(遠藤憲一)から「見聞を広めるまたとない機会」と旅のお供を勧められ、大坂に赴く。
秀吉に気に入られた信繁は馬廻衆に加わることを命じられる。石田三成(山本耕史)大谷吉継(片岡愛之助)茶々(竹内結子)らとの出会いを通じ、信繁は成長を遂げる。秀吉は天正18年(1590年)、北条を滅ぼし、全国を統一。天正19年(1591年)、関白の座を甥・秀次(新納)に譲り、太閤と呼ばれるように。信繁は関白付きとなり、文禄3年(1594年)には兄・信幸(大泉洋)とともに京の聚楽第で官位を与えられた。信幸は従五位下伊豆守、信繁は従五位下左衛門佐となった。
天正19年に息子・鶴松を2歳で亡くした秀吉に、文禄2年(1593年)再び男児(後の秀頼)が誕生した。文禄4年(1595年)、居場所を失った秀次は関白の座を放棄。聚楽第から失踪し、高野山へ。秀吉との間の誤解が解けぬまま自身を追い込み、自害。そして、秀吉には確実に老いが忍び寄る…。
屋敷氏は、大坂編の信繁について「秀吉の側近として権力の有り様を逐一見ているので、天下国家の運営を目の当たりにしました。今の時代なら、首相秘書官」と例えた。
信繁は最初、馬廻衆に命じられるが、この“設定”が「よかったと思います」と回顧。「時代考証の1人、黒田基樹先生(駿河台大学法学部教授)が研究された結果、信繁は実際に馬廻衆だったんですが、馬廻衆というのは秀吉のSP(セキュリティーポリス)であり、秘書官。側近として、いつも秀吉の近くにいて、その権力の様子をすべて見る立場にあったということが分かった時、ある種の大発見のように思いました」と、その効果のほどを語る。
「信繁はやはり、いわゆる軍記物として講談的なおもしろさがある人物。では、実際には、どういう実務を行っていたのか。それを描くのに役立ったのが、馬廻衆の一員だったという事実。三谷(幸喜)さんもそこにアイデアを得て、丹念に脚本を書かれたんだと思います。だからこそ、普通ならのぞけない権力の中枢を、私たちは信繁と一緒に見ることができました」
大坂編の終盤は老いる秀吉を丁寧に描き、信繁は秀吉に寄り添う。「秀吉との心の交流がしっかりできていくからこそ、信繁が関ヶ原の戦いで西軍に付いて三成を支え、大坂の陣で再び大坂城に戻ろうと思う理由が、僕たち作り手自身が納得できる。大坂編を綿密に描いているのは、そこにつながるということだったんだと改めて思いました」と大坂編が物語全体の伏線になっているとした。