おまきさんのこと
2016年12月13日 11:00
芸能
いろいろな現場で顔を合わせた。思い出すのは2005年1月、勘三郎さんの「襲名を祝う会」で深酒した七之助がトラブルを起こした時だ。メディアへの対応を巡り、ごく内輪の関係者だけで都内のホテルに集まったことがあった。まさに中村屋の一大事、その時も「おまきさん」が勘三郎さんの横で親身になって的確な助言をしていたことを覚えている。
最初の平成中村座のニューヨーク公演でも一緒だった。勘三郎さんが突然、天国へ旅立ち、残された勘九郎、七之助の息子たちが一昨年7月、父の遺志を継いで行ったNY公演「怪談乳房榎」も隣の席で観劇した。確か翌日のことだと思う。「よかったら食事に行きましょう」と誘われて、滞在先のホテル近くのレストランで夕食をともにした。この時、おまきさんは「きっとこれで哲明さんも安心してるわね。本当によかった」と嬉しそうに繰り返していた。
その後も何度かお目にかかる機会があった。必ず話題になるのが、最近のワイドショー、スポーツ紙の芸能取材のあり方だった。スキャンダルやゴシップばかりを優先。それも「一部の大手芸能プロばかりを配慮する報じ方、取り上げ方はいかがなものか」と苦言を呈していた。そのような視点では必ず視聴者、読者離れが起きるのではと憂えていた。
最後に会ったのは、昨年3月、中村屋兄弟の金沢での歌舞伎公演だ。仕事を終えて、東京へ戻る新幹線に乗り込む前、新しくなった駅ビルのおでん屋に入った。一杯だけお酒を飲み、「いつか2人でお客さんの前で勘三郎さんの思い出話が出来るといいね。絶対にやりましょうよ」。残念ながらそれは実現出来なかった。そして、何よりも不思議なのは、おまきさんが亡くなった12月5日が勘三郎さんの命日だということだ。
武藤さん、楽しい思い出をありがとうございました。(専門委員)
◆川田 一美津(かわだ・かずみつ)立大卒、日大大学院修士課程修了。1986年入社。歌舞伎俳優中村勘三郎さんの「十八代勘三郎」(小学館刊)の企画構成を手がけた。「平成の水戸黄門」こと元衆院副議長、通産大臣の渡部恒三氏の「耳障りなことを言う勇気」(青志社刊)をプロデュース。現在は、本紙社会面の「美輪の色メガネ」(毎月第1週目土曜日)を担当。美輪明宏の取材はすでに10年以上続いている。