船村さんは昭和ひとけた男の喜怒哀楽を一途に全う
2017年02月18日 08:07
芸能
昨年5月に心臓の手術をしている。極端に体調を崩していてのことで、あわや心不全の危機だったが、何とか乗り越えた。
「三途(さんず)の川を渡ったんだが、あっちにいた人たちに追い返されてな…」
ほろ苦くそんな話をしたのは、9月に茨城・水戸で開いた「高野公男没後60年祭演奏会」の楽屋でのこと。高野は「別れの一本杉」ほかをコンビでヒットさせた心友の作詞家。この歌のブレーク直後に26歳で亡くなっている。その時船村は24歳だったが、以後今日にいたるまで、彼の生き方考え方、歌づくりに、強い影響を残した人だ。
11月には文化勲章を受章する。歌謡界では初の喜びを、船村は、
「先輩たちの忘れ物を、僕があちらへ届ける役目だろうね」
と、微妙に表現した。高野をはじめ、コンビのヒットが多かった作詞家星野哲郎、親交のあった作曲家吉田正らすでに亡いお仲間と一緒の受章と思いたかったのだろう。
その祝賀会で、大勢の関係者や仲間の祝賀を受けたのは、つい先月、1月18日のこと。それだけに突然の訃報は、各方面に驚きと落胆とともに伝えられた。
敗戦の混乱が収まらぬ東京へ、栃木県から上京。茨城出身の高野と出会い、2人は新しい歌づくりを模索した。当時定型詩が常識だった歌謡界へ、「あの娘が泣いてる波止場」「ご機嫌さんよ達者かね」など、破調詞の挑戦。昭和20年代から30年代へ、地方の若者は復旧復興のために、都会へ動員されていた。当然、地方に残された人々はそれを案じる。分断された青春の、望郷と哀愁が歌づくりのテーマになった。
その後数多くの傑作を書き、船村はヒットメーカーにのし上がる。作曲生活64年、船村は異端から出発、やがて日本の歌の王道を極め、後進への影響も大きい。よく酒を飲み、タバコは切らさず、幅広い交友の中での談論風発を常とした、旺盛な読書家。剛毅(ごうき)と繊細さが滋味となり、北島三郎、鳥羽一郎ら弟子たちをはじめ、多くの人々から「おやじ」と慕われた。
今月13日には、最後の内弟子の村木弾の新曲「都会のカラス」のレッスンを自宅でしている。いつになく厳しかったと家族が語るくらい音楽への情熱はいささかも衰えていなかった。急な旅立ちだったが、船村は昭和ひとけたの男の喜怒哀楽を、一途(いちず)に激しく全うした人だった。 (スポニチOB、音楽評論家)