“なぜ気がつかれないのか?”「モンテ・クリスト伯」復讐劇のウラにある「虚しさ」
2018年05月31日 06:30
芸能
「その部分は整形したのかとか、昔はすごく太っていたのかとか、それを特殊メイクでやろうとかいろいろ考えました。だけど全部小手先だし、見る人にとっては同じ役者さんだとわかっているわけだし、そこは堂々といけばいいと思いました」。ドラマのメイン演出を担当している西谷弘監督はそう話す。さらに「意外と人って人のことを覚えていない」とも言った。
象徴的なシーンが第2話の最後、葬儀のシーン。主人公の暖(ディーン・フジオカ)が故郷の人々と再会。最初、暖はサングラスをして顔が見えず、誰だかわからない感じになっているが、神楽(新井浩文)と南条(大倉忠義)の目の前に現れた時にサングラスを外したがそれでも気がつかなかった。「“気がつくに決まっている”というのを逆手にとってやろうと思って、そこであえてサングラスを外して、なるべく顔を接近させる芝居にしました。それでもわからない、こんなに近くに行っても気づかない、だから復讐してやろうと思う。それは存在を忘れられた、存在が完全に消されてしまったんだという、その虚しさ。もし、暖が帰ってきて村にウェルカムで迎えられたら復讐はしなかったと思う。だけど一番悔しいのは死んだという情報があったにせよ十数年いなかっただけで存在が消されてしまうんだという、そういうところに復讐の一番の原点があるというようにしました」。
男性と女性にも違いはあるのだろうか。暖がなかなか復讐へ踏み切れない元婚約者のすみれ(山本美月)は少し違う演出がなされている。第2話で「すみれだけはニアミスですれ違わせてるんです。船がすれ違うだけのシーン、暖の背中が見えるだけなのに何かを感じ取るすみれという演出にしました」。目の前にいても全く気がつかなかった男性とは対照的に、女性は遠目にも関わらず気がついているかのような演出がなされている。もちろん、元婚約者という男性陣とは全く違う立場で接していたというのもあるが、登場人物たちの距離感、男女の違いにまで目を向けると、人間ドラマとしての深みを増す。
「映像というものをやってるからには、(セリフや音楽がなくても)映像だけで伝わらないといけない」。西谷監督は福山雅治主演のドラマ「ガリレオ」の劇場版「容疑者Xの献身」や「真夏の方程式」など、映画監督としても定評がある。演技や小道具など、映像の隅々にまで細かな演出を施すという映画的な手法を取り入れ、最近のテレビドラマにはない映像世界を作り出すことに成功している。
監督の意図する復讐劇は“模範解答”ではなく、一つの“解答例”なのだろう。“ツッコミどころ”満載でのドラマは“別解”が視聴者の数だけあってもいい。そこが「モンテ・クリスト伯」という作品の面白みにつながるのではないだろうか。満足度調査の数値は第6話まで平均3・76(5段階評価)と高満足度の基準3・7を上回り、4月スタートのGP帯ドラマで4位。復讐劇はどういう解答にたどり着くのか。ストーリーは終盤を迎える。