大竹まこと ラジオ3000回前に会見 3・11で意識変化「市井の人々と一緒にやっていけたら」
2019年01月15日 16:16
芸能
「ラジオはこの先どうなっていくかわかりません。衰退は予想されますが…。2011年3月11日午後2時46分。ラジオが身近な存在になってきたように思います」。東日本大震災は「市井の人々と一緒にやっていけたらな」と思わされた出来事だったという。
震災から約半年後、被災地でラジオのイベントをしているときに大竹を呼ぶ声が聞こえ、テントから顔を出すと、男性と小学校3年生の男の子が立っていたという。岩手県大槌市からやってきたその男性は「6人家族で生き残ったのはこの子と私だけです」と言い、男の子は津波に流されて「テトラポットの泥の中から発見されて、抱きかかえたところ“痛い、痛い”と声を出したことで生きているとわかった」と教えてくれた。それまでは「楽しければいいやくらいの放送しかしてこなかった」という大竹の気持ちを大きく変えたと明かした。
「そのときは民主党政権で、“テレビタックル”というテレビ番組にも出ていて、政権をボロクソに批判してもいい時代だった。いまはローラの発言とか難しい時代になってきた」と震災を機に放送業界も変わったと話す大竹。
リスナーについても、SNSの影響か「顔の見えないところで好きな意見…。正直、少しめげる」とも。「以前よりもラジオの発言に敏感、いい意味でも悪い意味でも弱者が強者になっているところがあるのかも」と同席した太田英明アナウンサーと顔を見合わせた。番組内では真面目な話から、くだらない話まで、ときには下品すぎてリスナーから叱られることもあったという。太田アナウンサーは「“俺がラジオだ”という人に会ったことがありません。必死について来て3000回。これからも支えていきたい」と話した。また16年に亡くなった永六輔さん(享年83)が大竹を自身の後継者だと語っていたことを紹介し、「永さんのように亡くなる前まで続けていってほしい」とエールを送った。
記念すべき3000回の放送には伊集院光(51)がゲスト出演。TBSラジオの看板番組に出演している伊集院とラジオについて語り合う。伊集院がお年寄りの施設で中継をしている企画について「いいな、パクろうかと思っています。まんまはダメだから形を変えてできれば」と密かな計画を話した。