読売テレビ・三浦隆志アナ 阪神・淡路大震災を振り返る 得た教訓は「相手に配慮し、気をつけて喋る」
2020年01月16日 05:00
芸能
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偶然だが、震災前日の1月16日、三浦アナは瓦職人、線香職人の取材で淡路・北淡町(現淡路市)を訪れていた。同地は兵庫県南部地震の震源地。数時間後、大災害が発生するとは「夢にも思ってなかった」。翌17日早朝に奈良で情報番組の中継があったため、芦屋の自宅には帰らず、淡路島から船で大阪・堺へ。当時はまだ、明石大橋が開通してなかった。震災の直撃を免れたが、「取材した方とはその後、連絡が取れなかった」と振り返った。
震災当日、堺から奈良の現場へ向かう車が南海電車の踏切にさしかかった所で、本震に遭遇した。運転手は「パンクですかね」と言ったが、それほど大きな地震と思わなかった。そのまま奈良の現場へ到着し「番組内容が変わる」と聞かされただけ。明るくなり、神戸の様子が分かり始めて、会社から「何としても神戸に向かえ」と指令を受けた。一度、大阪市内の会社へ立ち寄った。中継車1台、取材車1台で計9人。カメラ2台に、アナウンサーが1人のクルーを編成。大阪市内から北へ向かい、宝塚から神戸市北部を経由して被災した神戸・長田の街へ入った。普段なら車で1時間もかからないところが、10時間以上もかかった。そこで見た惨状。「消防士の方たちが“水が出ない”と叫んでた」「煙で一寸先が見えず、あわや迷子になりかけた」。原稿を書いてるヒマもなく、現場を見たまま、思わず出た言葉が「もう、これは神戸ではありません」。涙が浮かんでいた。
一度も自宅には戻らず、風呂にも入れず、2週間は取材車の中などで生活。履いているスニーカーは、燃えさかる火の海を取材して回ったせいで焦げていた。大先輩の日本テレビ元アナウンサー・福留功男氏(77)からと「見たままのリポートでいい」と教えられ、その後はどんな状況にも冷静でいられた。
東日本大震災の際には教訓も得た。「防災士の方たちは、被災者が寝ている所に土足で入るマスコミを目の敵にしていた。崩れた家も、被災者にとっては瓦礫(がれき)ではないんです。それ以来、相手に配慮し、気をつけて喋るようにしてます」。震災後の2011年11月に、自ら防災士の資格を取得した。
毎年1月17日には神戸市役所南側の「東遊園地」で竹灯籠に点灯し、震災発生の午前5時46分には黙祷する。幼少期から連れて行った息子もボランティアで参加。読売テレビに入社した新人アナたちも、必ず連れて行くそうだ。「未曾有の震災から25年。復興はまだ終わったわけではありませんが、神戸がこれぐらい元気になったことを皆さんに伝えたい。各地で起こった地震や水害で被災した方たちにも、希望を持ってほしいんです」。これからも伝承者の1人として、マイクを握る。(古野 公喜)
◆三浦 隆志(みうら・たかし)1968年6月28日、埼玉県春日部市出身の51歳。立教中、高で生物部。立教大を卒業して91年に読売テレビに入社。「ズームイン!!朝!」など報道、情報番組で活躍した。防災士の資格を持つ。家族は夫人と双子の男児・女児。