人生の大先輩、その言葉が心に響いた暑い夏
2020年08月19日 08:30
芸能
神山征二郎監督(79)の「月光の夏」(1993年公開)と、井上淳一監督(55)の「誰がために憲法はある」(2019年)に出演した女優の渡辺美佐子(87)が上映後に登壇し、自身の戦争体験など秘話を披露。ぐいぐい引き込まれた。
昨年まで映画祭のタイトルにもなっていた新藤監督とのエピソードは格別面白かった。さかのぼること59年前の1961年。渡辺が出演した山本薩夫監督の「武器なき斗い」がモスクワ映画祭に招待された。旧ソ連の首都で開催されるイベント。東西冷戦下とあり、「みんなに(渡航を)止められたけど、私は面白がるタイプ」と気にせず機上の人となったという。
「まずインドのニューデリーまで飛びました。そこにソ連の飛行機が迎えに来るという話でしたが、これが来ない。3日待ってようやくやって来た。モスクワの空港に着くと、新藤監督が迎えに来てくれていてうれしかったことを覚えてます」
新藤作品「裸の島」も招待されており、先に現地入りしていたのだろう。作品は瀬戸内海に浮かぶ孤島で暮らす夫婦(殿山泰司と乙羽信子)と子供2人の一家4人の営み、葛藤を描いた作品で、セリフを排した異色作。これが高く評価されてグランプリを射止めた。
「乙羽さんが来ていなかったので、上映日、私も日本からのご一行様という感じで監督と一緒に中央のVIP席で見ました。終わるとみんな立ち上がって拍手。スタンディングオベーションです。監督は歓声に応え、そして“渡辺さん、君も立って”と言うんです。“えっ、乙羽さんじゃないんですから”と申し上げると、“大丈夫。2人とも丸い顔してるんだから分からない”と…」
思わず吹き出した。マスクしていて良かったなあ、と思った。
戦争体験の話も興味深かった。当時、渡辺一家は麻布に住んでいた。45年3月10日の東京大空襲は難を逃れた。ところが4月、5月になって山の手にも爆撃が広がってきたから渡辺は母親と疎開。父親1人だけが麻布に残ったという。
「それでも幸運にも我が家は焼け残った。一間だけ洋間があり、戦後、その部屋は進駐軍に接収されて、米軍の将校が愛人を連れて住み込んできました。台所とトイレは共有。疎開先から戻った私たちは煎(い)った大豆をポリポリかんで食べてましたが、台所から“ジュー”と何かが焼ける音がする。ビフテキなんですね。その音と匂いはいまでも覚えてます。お腹にしみました」
そんな環境にご両親も耐えられなかったのだろう。やがて父親が三鷹に小さな家を見つけて、引っ越したという。実体験に勝る貴重な証言はない。映像文化も大切だが、渡辺のように語り継いでくれる人がいてくれるのは戦争の悲劇を風化させないためにも大切なことだと改めて思った。
渡辺は宝塚歌劇団出身の大原ますみ(77)や日色ともゑ(79)ら女優仲間たちと「夏の会」を結成し、原爆や空襲で被災した子どもたちの手記を朗読する会を続けてきた。メンバーの高齢化もあって昨年、その活動に終止符を打ったが、書籍や映像とカタチを変えて、その活動は生き続けるはずだ。
翌10日には有楽町の「よみうりホール」で行われた「柳家小三治 夏の会」に出掛けた。入口で体温チェックと手指の消毒。そして万が一、感染者が出た時に備えてのものだろう。座席番号と連絡先を紙に書き込んで、やっとホール内に入れてもらえた。新型コロナの感染拡大の影響でチケットを持っていた4月の落語会が6月に延期となり、それもまた中止となって悔しい思いをしていただけに、ようやくたどりついた小三治の高座。入場前の検査も気にならなかった。
小はぜ(「岸流島」)、三三(「不孝者」)で中入り、小八(「ふだんの袴」)が出て、そして大トリ小三治の登場。「粗忽長屋」で大いに笑わせ、一席置きに客席を埋めた観客から大きな拍手がわいたが、それを小三治が手で制し、静かに話し始めた。
会場をぐるりと見回し「私もマスクをしたいくらいだ」と口火を切ってまず笑わせた後、「人から移されるより、自分が(ウイルスを)持っていて、人に移してしまう方が怖い。だからマスクはした方がいい」と真剣な表情。そして「私にいただける拍手をきょうは医療関係者のためにしてあげてください」と訴え、自らも率先して手を打った。80歳の人間国宝の言葉に、ハンカチで涙をぬぐうご婦人の姿も見えた。