浅香光代さん 膵臓がんで死去 92歳…余命3カ月宣告、病名伝えずに緩和ケアを選択
2020年12月15日 05:30
芸能
高齢であるため、抗がん剤治療などは行わず緩和ケアを選択。病名も伝えなかった。昭次さんら親族は12日深夜に病院から「酸素がうまく吸えなくなっている」と連絡を受けて駆けつけたが、臨終には間に合わなかった。
浅香さんは9歳の時に子役として舞台に立った後、女剣劇に転向し浅香光代一座を旗揚げ。戦後、浅草を中心に活動し、1950年代後半からの女剣劇全盛時代に人気を集めた。女剣劇が衰退に向かうと俳優として舞台、映画、テレビに出演。90年代後半には「ミッチー・サッチー騒動」でワイドショーなどをにぎわせた。98年の舞台「ミッチーとサッチーのウルトラ熟女対決」で共演した野村沙知代さんとの確執をきっかけに起こった騒動は裁判沙汰にまで発展した。
私生活では幾多の男性遍歴を誇り、恋多き女として知られた。20代で隠し子を出産したことを公表。父親は大物政治家としたが最後まで実名は明かさなかった。72年に結婚した実業家の吉田博士氏と87年に死別。92年にコメディアンの世志凡太(86)と挙式。事実婚だった。
80歳を過ぎても意気軒高で、10年にはプロレス団体「MAP」の旗揚げ戦に参戦。高山善廣(54)と対戦して花を添えた。18年に都内のホテルで開かれた卒寿を祝う会では感謝の舞を披露。10月に施設に入所するまでは元気で、浅香流家元として殺陣の稽古にも出席。NHKのBSで今月放送予定の歴史番組のインタビューも受けていた。昭次さんは「自分は隠し子でしたが、その私から見ても母の一生は何の後悔もなかった。大往生でした」と波乱に満ちた母の人生を誇った。
◆浅香 光代(あさか・みつよ=本名北岡昭子=きたおか・しょうこ)。1928年(昭3)2月20日生まれ、東京都出身。主な出演舞台に「一本刀土俵入」「瞼の母」。米西海岸、ハワイ、バンコク、台湾などで海外公演も行った。出演映画は「晴れ、ときどき殺人」「北京的西瓜」。09年旭日双光章。