松尾雄治氏の恩返し…“第二の故郷”釜石とこれからもスクラム 次なる夢「観光地」へトライ
2021年03月07日 05:30
芸能
![松尾雄治氏の恩返し…“第二の故郷”釜石とこれからもスクラム 次なる夢「観光地」へトライ](/entertainment/news/2021/03/06/jpeg/20210307s00041000107000p_view.jpg)
「知っている風景が壊されていった。言葉が出なかった」
明大卒業後、9年間生活した第二の故郷。釜石の名を全国にとどろかせたラガーマンであると同時に製鉄所の社員として働いていた松尾氏らを温かく見守り、支えた地元の人々の顔が浮かんできた。1メートルもあるタコの足を「これ食べて」と持ってきてくれた魚屋さん。練習が休みの時にちゃぶ台を囲んで家族のように接してくれた旅館のスタッフ。無骨な手で海辺で網を編みながら「松尾、頑張れよ!」と声を掛けてくれた漁師さん――。
みんな無事か。すぐに駆け付けたかったが、現地で暮らす先輩から「気持ちはありがたいけど、泊まれるところもない。今は来なくていいよ」と諭された。V7戦士として共に戦った佐野正文さん(享年63)も波にのまれて亡くなったことを聞き、心が騒いだが「喜んでもらえる時期に自分にできることをしよう」と備えた。
2カ月たった11年5月、新日鉄釜石ラグビー部OBらで「スクラム釜石」を結成。19年W杯日本大会の釜石での開催を目指す運動を行って実現させた。会場となった釜石鵜住居復興スタジアムは被災した小中学校跡地に建てられたもの。18年に松尾氏らも出場した新日鉄釜石OBと神戸製鋼OBチームの試合がこけら落としとなり、W杯のフィジー対ウルグアイ戦では1万4000人が駆け付けた客席に大漁旗が舞った。
「活動初期には“被害を受けた街に国際大会を招致するなんて”と批判もあったけれど“人が集まることが街の発展につながる”という僕たちの思いが伝わり、多くの人が賛同してくれるようになった」と振り返る。「開催できたことが自信になった」「活気が出てきた」という街の人の笑顔を見て「感無量だった」としみじみ語る。
「ラグビーは一人じゃ勝てない。人生と一緒。少々間違ってもいいから“行くぞー”って言った時に“オーッ”って応えて一緒に進む仲間がいる時に勝てるんだ」。W杯を開催できた釜石をこんな状況になったと確信している。今後の夢は観光地にすること。「海も山もあって子供が遊べるし、鉄の街の歴史や鍾乳洞もある。船で来てもらうなんていいんじゃないか」。恩返しのスクラムを組み続けていくつもりだ。(鈴木 美香)
◆松尾 雄治(まつお・ゆうじ)1954年(昭29)1月20日生まれ、東京都出身の67歳。小学校でラグビーを始め、目黒高、明大でともに初の日本一を達成。新日鉄釜石に入社し、79年から日本選手権7連覇。主将や選手兼監督も務めた。日本代表キャップ数24。85年に引退し、解説者やタレントとして活動。1メートル73。