渡哲也さん 初著書の自伝、27日発売 未完成で旅立つも関係者が残り書き継ぐ
2021年03月25日 05:30
芸能
執筆の依頼に最初は「僕の本なんか売れませんよ。かえって迷惑がかかる」と固辞。出版元の青志社がさまざまな構成案を提示するなど粘り強く交渉した結果「やれるところまででいいのなら」という条件で少しずつ書きためていったという。
裕次郎さんへの思いや闘病の苦労はもちろん、元々は4人兄弟で6歳の時に2つ上の兄を栄養失調が原因で、12歳の時に渡瀬さんの下の6歳の末弟を病気で亡くした少年時代、裕次郎さんの後を継いだ石原プロ社長と俳優との間での苦悩、俊子夫人の内助の功への感謝などが、渡さんらしい丁寧な言葉遣いで余すところなくつづられている。
だが、体調が思わしくなくなった15年3月に中断。その後、急性心筋梗塞、呼吸器疾患などに見舞われ、再び筆を執ることはなかった。全体の8割ほどしか完成しないまま渡さんが旅立ったため、お蔵入りの危機に陥ったが、同社の阿蘇品蔵社長は「このまま眠らせてしまうのは惜しい」と、自身がその後の経緯を伝える付記を執筆。さらに、渡さんが亡くなる3日前に電話で「みんなはどうしてる、元気かい、やっぱりテレワークか」と会社を気遣っていたことなどを石原プロの浅野謙治郎専務が寄稿し完成させた。
91年の直腸がん克服後「ただ長く生きることよりも、短くてもいい、後悔のない生き方を大切にしたいと考えてきました」ともつづっている渡さん。その真摯(しんし)な生きざまは多くの共感を呼ぶに違いない。
《非公表だった支援活動も明かす》渡さんは舘ひろし(70)、神田正輝(70)ら石原軍団の後輩と11年4月に東日本大震災の被災地の宮城県石巻市で炊き出しを行った。現地でより海辺に近い女川町が甚大な被害を受けていると聞いた渡さんは、急きょ、同町にも向かうことを決意。石巻では取材を受けたが、女川では支援活動を非公表で敢行。女川一中で炊き出しを行い、避難していた同中学の生徒ら被災者と体育館で一緒に寝泊まりした。著書では初めてこの事実を明かしている。生徒たちからは「カレーがとってもおいしかったです」など感謝の言葉を贈られていた。