95歳 橋田寿賀子さん逝く 貫いた「大衆に受け入れられてこそ価値のある作品」
2021年04月06日 05:30
芸能
最期は娘のようにかわいがっていた女優泉ピン子(73)が、お手伝いさんとともにみとった。クルーズ旅行に行く時に着ていたお気に入りのドレスと、92年の「橋田文化財団」の設立時につくった松竹梅のドレスをピン子自身が橋田さんに着せ「私がお化粧をしてあげて旅立ちました」という。盟友だったプロデューサーの石井ふく子さん(94)は最期に間に合わなかった。
橋田さんは日本女子大卒業後の1949年、松竹に入社。同社初の女性社員だった。脚本部所属となり、52年に映画「郷愁」で脚本家デビュー。59年に退職しフリーとなった。64年にTBS東芝日曜劇場「袋を渡せば」で、当時TBSの石井さんと初コンビ。同年の同劇場「愛と死をみつめて」で脚本家として高評価を得た。
モットーは「大衆に受け入れられてこそ価値のある作品」。83~84年のNHK連続テレビ小説「おしん」はその象徴。83年11月12日にテレビドラマ史上最高の視聴率62・9%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録、平均視聴率も52・6%をはじき出した。海外での人気も高く、70近い国や地域で放送された。
90年にTBSで始まった「渡鬼」は2019年まで続いた。嫁姑(しゅうとめ)問題やバブル崩壊など時節を脚本に落とし込み「時代が私に書かせてくれる」と話した。
私生活では、66年5月10日の41歳の誕生日に、TBSのプロデューサーだった岩崎嘉一氏と結婚。結婚式の仲人は石井さんが務めた。岩崎氏は88年9月に肺腺がんと診断。橋田さんが翌89年の大河ドラマ「春日局」の脚本の準備を進めていた時で、看病しながらの執筆に自信をなくしていた。その背中を押したのが石井さんだった。
岩崎氏は89年9月に死去。「不倫と人殺しの話は絶対書くな」が遺言で、橋田さんはかたくなに守り続けた。ただし、見る方は好きだったようで「相棒」や「科捜研の女」などのファンだった。
高齢になっても運動に励み、健康を保った。90代に突入しても近所のジムに通い、30分ほどストレッチした後バランスボールやバーベルで鍛えた。得意の水泳は、80代の頃は毎日1000メートルを泳いだ。青竹踏みも数十年続けた習慣。アイデアに詰まると「頭に血が巡るような気がして」と始めたという。
「一流の脚本家は山田太一、倉本聰、向田邦子。私は二流」と謙遜するなど控えめな性格で「橋田ファミリー」と呼ばれる多くの俳優に慕われた。また、「橋田文化財団」の理事長として「橋田賞」を創設し、放送文化の発展にも寄与した。昨年11月には脚本家として初めて文化勲章を受章し「まだまだ書きたいテーマがある」と意欲を見せていた。