「エレキの神様」寺内タケシさん 器質化肺炎で死去 82歳 日本でブーム火付け役
2021年06月20日 05:30
芸能
退院も間近と思われていたが、18日午後に突然病状が悪化。帰らぬ人になった。後日、お別れの会を開く。
5歳でギターを手にし、9歳で電話機を分解して取り出したコイルを並べ、エレキギターを自作した伝説の持ち主。活動初期はロカビリーバンドで、故いかりや長介さんらと組んで全国の米軍基地をキャラバンで巡回した。
その後1962年に「寺内タケシとブルージーンズ」を結成し、加山雄三(84)の主演映画「エレキの若大将」に出演するなど日本のエレキサウンドの先駆者として人気を博した。
若い頃から、指から血がにじみ骨が見えるほどの猛練習を重ね、手に入れた速弾きは世界でも有数のスピード。派手に見えないが、実際に他の人が弾くと難しさが分かる玄人好みの技巧を誇った。
ベートーベンの交響曲第5番をエレキで演奏した「レッツ・ゴー『運命』」は67年に日本レコード大賞編曲賞を受賞したほか、海外ミュージシャンの間でも評判を呼び、英ロックバンド「ディープ・パープル」のリッチー・ブラックモア(76)は、72年のヒット曲「ハイウェイ・スター」のギターソロで同曲のフレーズを引用したといわれる。
60年代後半、まだエレキギターが不良のイメージで見られ、多くの学校で「エレキ禁止令」が出される中、74年から全国の高校を対象に「ハイスクールコンサート」を実施。教育機関に受け入れられなかったエレキを通じて、逆に教育の現場に貢献したとして、00年にはスポニチ文化芸術大賞の優秀賞を受賞。16年11月まで、通算1581校にのぼるライフワークとなった。
01年に大腸がん、06年にうっ血性心不全と肺気腫を患うなど晩年は病気との闘いだった。長男の章さんによると、最後の本格的なステージは19年4月13日、神戸で行われたライブ。昨年2月にも同所でライブにゲスト参加していた。関係者は「コロナ禍で数々の公演が中止に見舞われたが、いつか客の前で演奏したいと話していた。無念だろう」と悼んだ。
≪メーカーと共同で楽器開発の草分け≫1960年代に映画「若大将」に出演していた寺内さんが使用していたのが、ヤマハ・ブルージーンカスタム。楽器メーカーと共同でエレキギターを開発した日本人アーティストの草分け的存在だった。99年には寺内さんの認証モデル「TBJ CST」を開発。自身も8年間にわたりステージで使っていた。07年には1本105万円の後継モデルを発売した。
≪晩年まで高校生に歌声届ける≫高校生に歌声を届ける熱意は晩年まで衰えることはなかった。所属レコード会社によると、寺内さんのハイスクールコンサートは16年11月24日に熊本県立八代高校で行ったのが最後。同校は当時、公式サイトに「幅広い世代の曲や歌を披露してくださり、生徒は興奮を抑えることができない様子でした」と投稿していた。
◇寺内 タケシ(てらうち・たけし)本名・寺内武。1939年(昭14)1月17日生まれ、茨城県土浦市出身。関東学院大在学中にプロデビュー。特徴的なギターテクニックは「テケテケ奏法」と呼ばれた。70~80年代には冷戦下の旧ソ連でたびたびツアーを行い、81年に国連平和賞、84年にソ連文化功労賞を受賞。さらに04年に文化庁長官表彰、08年に緑綬褒章を授与されている。