作詞家の喜多條忠さん死去、74歳 「神田川」「やさしい悪魔」などのヒット曲手掛ける
2021年12月01日 00:00
芸能
早大在学中に文化放送でアルバイトを始め、中退後に同局で放送作家に。コント55号やザ・ドリフターズのコント台本も書いた。1日に200字詰め原稿用紙250~300枚を書く生活を送った。
代表作「神田川」は喜多條さんの文才が凝縮された名作と誉れ高い。新曲のキャンペーンで文化放送を訪れた南こうせつ(72)に見込まれ、最初の曲「マキシーのために」を提供。半年後「また書いてよ。締め切りは今日だけど」と頼まれて誕生したのが「神田川」だった。
帰り道に神田川を渡る、アパートでの貧しい同棲生活を思い出した。昼間に学生運動のデモで命の危機を感じる生活の中、帰宅すると狭い台所で彼女がカレーを作っていた。「この優しさに安住した生活に逃げ込めば抜け出せない」と感じた若き日の焦燥感を「ただ貴方(あなた)のやさしさが怖かった」の1行で表現した。
「赤い手ぬぐいマフラーにして」「小さな石けんカタカタ鳴った」など、情景が鮮明に浮かぶ表現力は、長年にわたり評価された。
80年代後半から約20年、作詞活動を離れボートレース評論家として活動したことでも知られる。「ギャンブルのヒリヒリする感覚が人生の何かに通じる」と徹底的にのめり込み、スポニチ大阪版でもコラムを連載していた。
作詞家の湯川れい子氏(85)は「かなりの飲んべえでしたが決して酒にのまれず、納期までに必ず詞を完成させるなど、仕事は本当に真面目」と偲んだ。「女性への優しさを忘れないフェミニストで、感情をむき出しにしないクールな人でした」。“優しさ”を原点にした名作詞家らしい生きざまだった。
◇喜多條 忠(きたじょう・まこと)1947年(昭22)10月24日生まれ、大阪府出身。小学生時代に毎日、日記を書いて教師に提出し、ご褒美にもらった「広辞苑」を読破。早大では学生運動のかたわら、井原西鶴を専門研究する授業や人形劇のサークルに打ち込んだ。14年5月に日本作詩家協会の8代目会長に就任し、20年6月まで3期務めた。