三遊亭好楽 4歳年下“弟分”訃報にショック「心にぽっかり穴があいたよう」
2022年10月01日 05:30
芸能
![三遊亭好楽 4歳年下“弟分”訃報にショック「心にぽっかり穴があいたよう」](/entertainment/news/2022/10/01/jpeg/20221001s00041000121000p_view.webp)
円楽さんがプロデュースしていた「博多・天神落語まつり」に触れ、「協会などを超えて、落語界のけん引役をつとめてくれました。惜しい人を亡くした」と弔意を示した。
師匠は同じ五代目三遊亭円楽さん。兄弟弟子にあたる。芸の上でも切磋琢磨(せっさたくま)した間柄だ。
落語協会を飛び出した五代目円楽さんが大日本落語すみれ会(のちの円楽一門会)を結成。1985年、東京都江東区東陽町に自前の寄席「若竹」を開いた。出演する演者が足りず、師匠の命令で強制的に、楽太郎時代の円楽さん、好楽、三遊亭鳳楽、三遊亭円橘の4人が月に3回ずつ独演会を開かされたのも思い出。互いが小屋代(使用料)6万円を払いながら、「みんな、お客さんを集めるのが精いっぱい。負けてなるものかと思いました」。落語協会から聞こえてくる風の噂は「あんな寄席つくりやがって。おまけに、弟子から上納金まで取ってやがる」。「すみれ会」という小所帯で、共に戦う円楽さんは、好楽の同志でもあり、戦友でもあった。
二つ目時代、仲が良い落語家が集まって草野球チームを結成した。チーム名は落語の「寿限無」にちなんで「ジュゲムズ」。メンバーの中に楽太郎時代の円楽さんもいた。
試合が終わると好楽が住んでいた練馬区内の都営アパートで酒盛りをするのが恒例。多いときは20人がひしめくように狭い部屋に集まった。
「円楽はマメで器用なので台所に立ってはカレーを作ってくれたりしてくれました。目配りや気配りができる優しい男なんですよ」
酒盛りのあと泊まっていくこともしばしば。本当の兄弟のような付き合いは続いた。
「笑点でも一緒。旅(地方の落語会)にも、数え切れないぐらい行きました。いつか、戻ってきてくれると思っていたのに。心にぽっかりと穴があいたようで、寂しいです」と話した。