あの「解体新書」で有名な杉田玄白“絶頂期”の年収は…青学大名誉教授「1年目は五人扶持」
2023年05月08日 21:11
芸能
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杉田は21歳で小浜藩の藩医として医師人生をスタート。当時の年収について青山学院大学の片桐一男名誉教授は「その頃は藩医といってもまだまだ下っ端で給料は“五人扶持(ふち)”でした」と説明。
扶持とは現在の給料にあたり、小浜藩では当時一人扶持が“1日5合のお米”に相当。五人扶持では“1日25合のお米”となるため、片桐名誉教授は「今のお金に直すと、1年目の年収はおよそ54万円ぐらいだったんじゃないですかね」と話した。
番組では江戸時代のお医者事情として医師は大きく分けて幕府医師(奥医師、御目付医師)、藩医(侍医、御用医師)、町医者・村医者の3つに分かれると説明。最上医にあたる奥医師になると高い人で年収約3000万円ほどだったと紹介した。
だが杉田はより多くの患者を診察するために最後まで給料の高い幕府医師にはならず。25歳のときには日本橋で町医者として働き、平均的な診察料(1回)が7500円(金2朱)~6万円(金1両)という高額でとても医者に通えなかった町民に対し無料で奉仕することもあったという。
そんな杉田の“絶頂期”とされるのは「解体新書」を出版して日本医学界を一新するような偉業を成し遂げた40代後半。江戸一番の流行医となった当時の年収は約2700万円(藩医の収入1200万円+町医者の年収1500万円)」と推測した。しかし、贅沢な暮らしをするわけではなく、稼いだお金は蘭学塾の運用資金にあて高価な蘭学の書物を購入して若者に与えていたと紹介した。