上岡龍太郎さん死去 81歳 関西の伝説芸人 ダウンタウン・松本らが継承“元祖フリートーク王”
2023年06月03日 05:30
芸能
関係者によると、病気についても親族以外には明かしていなかった。長男で映画監督の小林聖太郎氏(52)は「昨年秋ごろ、積極的治療のすべがなく本人も延命を求めていない」と知らされたという。13年に医師から「心筋梗塞の気配がある」と診断され、一時期は大好きなゴルフも控えていた。その後再開し、数年前まで元気にプレー。同じく趣味のマラソンなどを楽しんでいた。
親しい人の慶事や弔事には姿を見せ、15年3月に桂米朝さんの葬儀に参列した。16年11月に大阪で開かれた小林氏の監督作「破門 ふたりのヤクビョーガミ」の試写会では、息子の晴れ舞台を客席から見守っていた。これが報道陣の前に見せた最後の姿だった。
高校卒業後に芸の道に進み、バンドのコンサートなどで司会を務めた。1960年に横山ノックさんに誘われ、「横山パンチ」の芸名で「漫画トリオ」に参加。「パンパカパーン!今週のハイライト」から始まる時事ネタを取り入れたニュース漫才がウケた。
ノックさんが68年に参院選に出馬すると、トリオは活動停止。次々に関西圏でレギュラーを増やし「ラブアタック!」「花の新婚!カンピューター作戦」などの番組がヒットした。88年には「探偵!ナイトスクープ」が開始。深夜枠ながら視聴率30%台を連発したお化け番組で「初代局長」として親しまれ、引退まで出演を続けた。
よどみないしゃべりの中で、知性的な言葉と芸人らしいボケを両立させた。毒舌ゆえに騒動も数え切れなかったが、視聴者の支持は変わらず。演芸関係者は「一代限りのフリートーク芸。そのDNAが島田紳助さんやダウンタウン松本さんに受け継がれている。伝説の芸人です」と語る。
「絶対東京には行かへん」とかたくなだったが、87年開始の読売テレビ「鶴瓶上岡パペポTV」が、翌88年から日本テレビ系でも放送。90年に本格的に東京進出。フジテレビ日曜昼の冠番組「上岡龍太郎にはダマされないぞ!」で全国区の人気を得て、テレビ6本、ラジオ5本を持つ売れっ子に。近畿の高額納税者番付の上位に何度も名を連ねた。
だが、芸能活動40周年を迎えた2000年4月にキッパリと引退。「21世紀は私の時代ではない」と、全ての番組を降板して芸能界を去った。人気絶頂のさなかだっただけに、大きな衝撃を与えた。
≪ナイトスクープ初代局長≫
上岡 龍太郎(かみおか・りゅうたろう)本名小林龍太郎。1942年(昭17)3月20日生まれ、京都市出身。京都西高時代にロカビリーに傾倒し、卒業後はバンドボーイとして司会などを務める。「漫画トリオ」として活動した後、70年代にテレビ司会者としてブレーク。関西テレビ「ノックは無用!」では、盟友・横山ノックさんと共演。「探偵!ナイトスクープ」初代局長(88~2000年)として「阪神が優勝できないのはカーネル・サンダースの呪い」「アホバカ分布図」を作成するなど、話題の企画を放送した。元々の夢は役者。「上岡龍太郎劇団」や「変化座」を旗揚げし、その夢をかなえた。芸名の「上岡」は婿養子だった父の旧姓。兄弟漫才コンビ「ミキ」はおい。