「中野サンプラザ」若者の心のよりどころとして1973年開館 04年民営化で正式名称に

2023年07月02日 10:00

芸能

「中野サンプラザ」若者の心のよりどころとして1973年開館 04年民営化で正式名称に
建設中の中野サンプラザ(C)株式会社中野サンプラザ Photo By 提供写真
 東京都中野区のランドマークである複合施設「中野サンプラザ」が2日、50年の歴史に幕を閉じる。数ある施設の中でもコンサートホールは「音楽の殿堂」として多くのミュージシャンやアイドルに愛されてきた。
 中野サンプラザは「全国勤労青少年会館」として高度経済成長期の1973年に開館した。旧労働省が100億円と5年の歳月をかけて旧陸軍中野学校の跡地に建設。集団就職で上京してきたものの離職、転職を繰り返す若者たちが社会問題となる中、心のよりどころとなる場所が求められていた。

 高さ92メートル、地上21階、地下2階の高層ビルは特徴的なピラミッド形。公募で決まった愛称は「サンプラザ」で、「サン=太陽」「プラザ=広場」に由来した。

 施設のメインは2222席収容のコンサートホール。このほかボウリング場(28レーン)、研修室や地方紙が読めるスペース、結婚式場、レストラン、ホテルが入り、地下には25メートルの温水プールが7コース分。テニス漫画「エースをねらえ!」が若者の間で流行した80年にはテニスコートも造られた。親元を離れた若者たちが交わり、語り合い、新たな文化が育まれていった。

 “官製”の弊害で赤字を垂れ流したことを受け、小泉内閣の行政改革の一環で2004年に民営化。これを機に愛称だった「中野サンプラザ」が正式名称になり、1年で黒字への転換にも成功した。昭和、平成、令和と3つの時代にまたがって地域のシンボルとして愛されてきたが、老朽化などを理由に解体されることになった。


 ≪存続の危機救った「スペース」高山義章社長≫中野サンプラザ存続の危機を救ったのは地元の若手経営者たちだった。奔走した地元の不動産会社「スペース」の高山義章社長(68)は「地元の意地を見せたかった」と振り返る。

 02年、同施設の赤字が毎年3億円を超える中、国側が中野区へ払い下げを打診。「公共性のある運営を10年間継続するなら」という条件付きで、建物・土地の評価120億円に対し、約60億円での売却を提示。だが、区は2億円しか出せないと二の足を踏んだ。当時40代だった高山氏は、もし外部の手に渡ればタワーマンションや宗教団体の総本山へと変貌する将来像を危惧。「そうしたら中野の街づくりは終わる」と縁もゆかりもなかった政府系金融機関へ飛び込み融資を受けることに成功。04年12月、区が実権を握る形で民営化し、1年で黒字に転換。その後も中野のランドマークとして親しまれ「完全に区民資産に生まれ変わった」と誇らしげに語った。
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