唐十郎さん、死去 稀代の劇作家が伝説を残して 猥雑、反骨、アングラ劇のような人生に幕が下りた
2024年05月06日 05:00
芸能
2012年5月には自宅前で転倒して頭部を強打。外傷性脳内血腫と脳挫傷と診断され、後遺症として残った脊椎管狭窄(きょうさく)症の痛みに悩まされ続けた。当初は歩行も困難だったが懸命のリハビリが奏功。舞台復帰こそかなわなかったが、時々、唐組の芝居を観劇に訪れるほど回復していた。
21年には文化功労者の顕彰式に出席。今年4月13日朝には地方公演に向かう劇団を見送り、久保井研座長代理は「手を取るぐらいの支えで車があるところまで一人で歩いてこられました」と説明。美仁音は「自宅では映画を見たり、自分の脚本を読んで自画自賛していました。時々散歩にも出かけていました」と明かした。
唐さんは明大在学中から俳優として活躍し、63年に劇団「シチュエーションの会」(後の状況劇場)を旗揚げ。李礼仙さんと「金粉ショー」でキャバレーを巡りながら芝居の資金を集めた。
一役有名になったのが67年に新宿・花園神社境内での「紅(あか)テント」公演。薄暗いテント内で演者と観客が一体になって芝居を展開するスタイルが話題を呼び、アングラ演劇ブームに火を付けた。“テント建てから舞台が始まる”が紅テントの芝居。社会的弱者が主人公になることが多く、生々しい人間の感情が鋭く描かれつつもナンセンスな舞台で躍動する麿赤児(81)ら“七人衆”の俳優陣の怪異な演技が評判を呼んだ。機動隊に囲まれることもあったが、その熱量は若者の心をつかみ、後に故根津甚八さんや小林薫(72)らスターを輩出した。
83年に「佐川君からの手紙」で芥川賞を受賞するなど作家としても活躍。NHK大河ドラマ「黄金の日日」など映像作品にも登場し、その情熱は演劇だけにとどまらなかった。
≪「特権的肉体論」紫綬褒章“辞退”≫
唐 十郎(から・じゅうろう)本名大鶴義英(おおつる・よしひで)。1940年(昭15)2月11日生まれ、東京都出身。62年に明大を卒業。演劇論「特権的肉体論」は後の世代に強い影響を及ぼした。紅テント公演は韓国やシリアなど海外公演も敢行。70年に「少女仮面」で岸田国士戯曲賞受賞。67年に李麗仙さんと結婚し、88年に離婚。89年に現在の妻と再婚した。05年には紫綬褒章受章を内示されるが辞退。横浜国大や母校の明大で教壇に立った。
▽急性硬膜下血腫 主に頭に受けた強い衝撃で脳の血管が傷ついて出血し、脳を覆っている硬膜と脳の間に血だまりができた状態。脳が損傷し、血腫が脳を圧迫するため意識障害、半身まひなどの症状を伴うことが多い。脳の血管がもろくなった高齢者に多く、転倒、交通事故、格闘系スポーツなどが契機になる。血腫が大きい場合は開頭手術、小さく症状が軽度の場合はカテーテルを挿入して血腫を取り除くこともある。死亡率は60%以上。3月に亡くなった漫画家鳥山明さんもこれが死因とされた。
◇唐十郎“型破り”伝説◇
▽金粉ショー 1964年ごろ、李麗仙さんらと全身に金粉を塗ったショーでキャバレーを回り、資金稼ぎ。購入したテントで紅テントを開始。
▽神社境内使用禁止 新宿・花園神社で上演した作品が公序良俗に反すると神社関係者から指摘され、名称を「月笛お仙 義理人情いろはにほへと編」に変更。その翌年にあたる68年には境内使用禁止となった。
▽新宿西口公園事件 69年1月に東京都の中止命令を無視して新宿西口公園で紅テント公演を強行し、約200人の機動隊員に包囲されながら約3時間の上演をやってのけた。終演後、李麗仙さんらと現行犯逮捕される。
▽レコード発禁 1970年発売の歌手デビューレコード「愛の床屋」が発売・放送禁止に。自作の歌詞の内容がショッキングだったため全日本床屋組合からクレームが入ったといわれている。
▽ソウルでゲリラ上演 72年のソウルで無許可のまま「二都物語」をゲリラ上演。
▽難民キャンプで紅テント 74年にパレスチナの難民キャンプで「パレスチナの風の又三郎」を上演。
▽映画ロケで拳銃使用 初監督映画「任侠外伝・玄海灘」のロケで元暴力団組長で主演の安藤昇さんと本物の拳銃を使用し、本紙などに公表。銃刀法違反の疑いで逮捕される。撮影中、本物の出刃包丁を背中に受けたという安藤さんは「妥協のないダイナミックなリアリズム演出」と表現。
▽野坂さんと大げんか 新宿ゴールデン街の飲食店で作家の野坂昭如さんと包丁を手に大げんか。