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【100歳 甲子園球場物語】進駐軍の接収 そして…大歓声とともに野球が戻ってきた

2024年07月19日 07:00

野球

【100歳 甲子園球場物語】進駐軍の接収 そして…大歓声とともに野球が戻ってきた
接収中の甲子園球場を背にした進駐軍兵士と高射砲(ラッセル・ピーターソンさん所蔵・甲子園歴史館提供) Photo By 提供写真
 終戦後、甲子園球場は連合国軍総司令部(GHQ)の進駐軍に占領、接収された。戦時中、日本軍が軍事施設に利用していた球場は1945(昭和20)年10月、米軍の兵舎や酒場、体育学校となった。グラウンドやスタンドは47年に部分解除となり、甲子園に野球が戻った。 (編集委員・内田 雅也)
 甲子園球場長・石田恒信はその日も甲子園球場にいた。1945(昭和20)年8月15日、ラジオの受信状態が悪く、正午の重大放送は自転車で向かった上甲子園の浄水場で聴いた。手製本『続・甲子園の回想』にある。

 戦時中、甲子園球場は軍事施設となっていた。43年に大鉄傘が解体された。スタンド下の部屋は軍需工場や資材倉庫となった。三塁アルプススタンド下の室内プールは大阪帝大(現大阪大)水中音波研究所が潜水艦や魚雷の接近を音で知る研究に使った。44年から陸軍輸送隊が常駐した。

 45年4月、米軍の沖縄上陸で食糧事情も極端に悪化。内野の土を開墾し、サツマイモを植えた。石田は<ついにたまりかね、長年手塩にかけたダイヤモンドに万感の思いを込めて“グサリ”と最初のひとクワを打ち込んだ>と記している。

 終戦を知った石田ら球場職員がまず手がけたのはグラウンドの再整備だった。畑の畝をつぶした。イモは親指大に育っていたが<収穫をあきらめ、一刻も早く元の球場に戻すことが急務>。球場とともに生きてきた意地があった。すぐ近くの甲陽中(現甲陽学院高)の生徒が2週間動員され、手伝ってくれた。

 進駐軍のジープが球場にやって来たのは9月30日だった。連絡を受けた阪神電鉄運動課長・辰馬龍雄が大阪・梅田の本社から駆けつけると将校が「10月から球場全体を接収する」と一方的に告げた。

 接収部隊は10月3日にきた。陸軍特別奉仕隊120人で後続部隊の駐屯設営を行った。一塁側2階食堂はバー、1階食堂は物資補給所と物品を販売する売店(PX)となった。球場職員と派遣された数百人の作業員が昼夜兼行で整頓、清掃に使われた。辰馬は「命令はお構いなしに来る。全くのてんやわんやでした」と阪神電鉄社史『輸送奉仕の五十年』で語っている。

 やがて重工兵、砲兵、歩兵の各部隊がやって来た。歩兵は沖縄戦に参戦した部隊だった。貴賓室は司令部となった。通路には兵士の折りたたみベッドが並んだ。夜にはバーでレコードをかけ、ダイス遊びに興じる兵士の歓声が響き渡った。

 子どもたちが球場周辺に集まり、チョコレートやキャンデー、ガムをねだった。そして<夕闇迫るころ、どこからともなく現れ来て木陰や軒下にたたずむ、うら若い婦女子の姿があった。(略)随所に目を覆う行為が繰り広げられていた>。さらに石田は<日本男子にとっては誠に情けない時代>と記した。

 また、下士官の体育指導者を養成する体育学校も作られた。室内プールで水泳、室内体育館でバスケットボール、グラウンドでアメリカンフットボールなどが行われた。

 今年4月、接収当時の未公開写真9枚が見つかった。米国の写真家ランディ・ウェントリングが神戸市文書館に寄贈した。知人が米国内で購入し、譲り受けた写真で、撮影者はわかっていない。

 阪神電鉄に占領期の写真はなく、貴重な資料だ。スコアボードにはそれまでなかった「SBO」の英文字が加えられていた。「KOSHIEN STADIUM」と書かれた外壁の看板や制限速度をマイルで示した英語の交通標識もあった。

 甲子園歴史館には元米兵、ラッセル・ピーターソンが寄贈した数枚の写真がある。18歳だった47年1月から半年間過ごした。車両警備が任務で高射砲の訓練も受けた。88年に「甲子園は青春の思い出の地」と記した手紙を球場に寄せていた。

 手紙を頼りに2005年5月、当時球場長の揚塩健治が大リーグの球場視察で渡米した際、ウィスコンシン州アップルトンの自宅を訪ね、譲り受けた。

 1枚は球場前で高射砲に寄りかかる兵士が写っている。スタンド上部に「4日~8日 日本野球」とプロ野球の試合告知が見える。

 この47年は、1月10日にグラウンドとスタンドが接収解除となり「球場を貸与する」と本末転倒の使用許可が出ていた。貴賓室など接収の完全解除は54年3月31日まで待たねばならない。

 3月30日、選抜大会が初日を迎えた。ピーターソンは「早朝4時、警備から球場に戻ると、駅から大勢の人が降りてきた。センバツというイベントがあるとは聞いていたが、ここまで人が集まるとは思わなかった」と振り返っていた。

 人びとの感激は相当だった。甲子園に野球が帰ってきたのだ。46年夏は西宮球場での開催。春夏の甲子園大会で言えば、41年選抜以来6年ぶり(42年夏に幻の甲子園大会)、プロ野球で言えば45年1月の正月大会以来だった。屋根はなく、空襲で3日間炎上した一塁側アルプス席上段は立ち入り禁止だった。

 開会式で大会会長・本田親男(毎日新聞社社長)が「皆さん、あの日の丸をご覧ください」とあいさつすると大観衆の心が震えた。メインポールに掲揚が制限されていた日章旗が翻っていた。 =敬称略=

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