内田雅也が行く 猛虎の地<12>新阪神ビル「エーワン・ベーカリー」
2018年12月15日 10:00
野球
翌6日夕、担当スカウト・河西俊雄が尼崎市東園田町の自宅を訪れ、指名あいさつとなった。母・喜美、長兄・房雄、近所で鉄工所を経営する宇野昌一が後見人で同席した。ドジャース来日での日米野球が開催中で、江夏は河西に入場券を頼んだのだが「進学するかもしれないのに、あんなことお願いしなければ良かった」と話している。
東海大から勧誘を受けていた。8月、自宅に総長・松前重義自らが訪れ、学費免除に毎月の小遣い支給、さらに同僚の部員を何人か一緒に入学させると約束した。実際に主将や捕手とともに練習に参加し「九分九厘進学」のつもりでいた。
ドラフト2年目。当時は指名されても入団を拒否する選手はいくらもいた。阪神でも前年は9人中6人、この年も14人中8人が拒否している。
河西は江夏が登校中で不在の7日に再び訪れ、以後しばらく交渉が途絶える。身分保障のない将来への不安から江夏側は上限1000万円と決められた契約金の上積みを要求していた。何しろ制度ができる前、64年に東京(現ロッテ)入りした山崎裕之(上尾高)は5000万円だった。
膠着(こうちゃく)状態を破ったのは東京から来阪した佐川直行である。駆け引きにたけた老練スカウトで「たぬき」と呼ばれた。25日の日曜日、「1対1で会いたい」と電話で呼び出した。
当時の新聞には<大阪市北区某所>と極秘交渉だった。2002年刊行の後藤正治『牙――江夏豊とその時代』(講談社)に<大阪駅前、「ベーカリー」という名の喫茶店>とある。当時の住宅地図で見ると、新阪神ビル1階の喫茶店「エーワン・ベーカリー」と推察できる。阪神電鉄本社ビルの並びにあった。
「結構いい球投げるんだってな。だけど僕は君みたいな投手、ちっともほしくない。会社がぜひと言うんでしょうがないからここに来たんや」
江夏は<内心「なんだ、このクソジジイ」と腹立たしかったですよ。最後は、そんなにガタガタ言うんだったら、入ってやろうやないかという気持ちになった>=『左腕の誇り 江夏豊自伝』(新潮文庫)=。佐川は後に「気の強い男だから、カーッと燃えさせて、一気に入団に持って行くやり方だった」と語った。
28日に家族同伴で交渉し入団内定、10月3日に晴れて入団発表となったのである。 =敬称略=(スポニチ編集委員)
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