「虎のカンセコ」が一念発起で保険業に挑戦 昨年さらなる挑戦求め社長から“降格”

2021年01月21日 09:00

野球

「虎のカンセコ」が一念発起で保険業に挑戦 昨年さらなる挑戦求め社長から“降格”
<猛虎の血・金子誠一さん>タイガース入団時の写真を手に笑顔を見せる金子誠一さん(撮影・後藤 正志) Photo By スポニチ
 【猛虎の血―タテジマ戦士のその後―(5)金子誠一さん 】 「和製カンセコ」として期待されたスラッガーが金子誠一(56)だ。阪神では珍しい大型の外野手として入団時から注目されたが、歩行も困難になるほどの腰痛との闘いを強いられ、プロ7年間で通算11本塁打に終わった。第2の人生で保険の世界に飛び込み、独立して代理店「FPスタジアム」(本社・大阪市北区)の社長になった金子は、コロナ禍の昨年、ある決断をした。挑戦はまだ続いている。
 阪神入団時から「虎のカンセコ」と呼ばれた。ドラフト3位で指名されたのは88年。この年、メジャーではアスレチックスのホセ・カンセコが本塁打、打点の2冠王、MVPにも輝く活躍を見せた。

 阪神に少なかった大型のパワーヒッター。当時の監督・村山実も即戦力として注目していた。本家とスペルは違うが、「KANEKO」の真ん中にSを入れると同じ読み。ニックネームは定着した。

 だが、金子は当時から腰に爆弾を抱えていた。法大4年、春のリーグ戦前にぎっくり腰を発症。痛みに耐えながらプレーを続けたことが慢性化につながった。「3年までは控えの投手だった。野手として勝負するときだったし、治療は後回し。だから腰痛がクセになってしまった」。痛みが出ると、歩けない、寝返りも打てない。塗り薬とテーピングで辛抱する日々。社会人を経てのプロ入りに「不安はあったけど、目指していた世界」とタテジマに袖を通した。

 プロ1号は1年目の89年5月、横浜・遠藤一彦から。ベース一周時に笑うと、ベンチに戻ってからコーチに怒られた。「負けてるのに笑ったらあかん」。手応えよりも、その言葉が耳に残った。

 現役時代はキャデラックが愛車。大きな体で腰に負担をかけずに乗れるのが米国車だったからだ。だが腰は再発のたびに悪化した。下半身の感覚がマヒするほどだった。95年に戦力外通告を受け、これが限界だと悟った。

 「球団からはスカウトの枠が空くまで阪神電鉄で何年か働いては、と言われた。でもまだ31歳。野球とは違うことで可能性を試したかった」。知人の紹介でソニー生命に入社。資格取得のため「生まれて初めて勉強で熱を出した」。滑り出しは順調。知人も多く、契約はスムーズに取れた。「野球でたたき込まれたあいさつ、時間厳守、上下関係。そこもプラスになった」。08年には独立し、代理店「FPスタジアム」の社長に就任した。

 現役時代から常に支えてくれたのが阪神元監督・岡田彰布。オリックス2軍でT―岡田の飛距離が話題になったとき、神戸サブ球場での損害賠償保険を球団とまとめることができた。「よう飛ばすから車や人に当たりそうや」という岡田の話がヒントになった。

 社員は20人を超え、全国7カ所に拠点を構える中、金子はコロナ下の昨年、社長を後進に任せる決断をした。「お客さんと接する時間をもう一度作るため、営業マンに戻ることにした」。今だからこそ保険のプロの出番。そう信じて。 =敬称略= (鈴木 光)

 ◆金子 誠一(かねこ・せいいち)1964年(昭39)7月23日、宮城県出身の56歳。東北―法大―本田技研和光―阪神(88年ドラフト3位)。長身のパワーヒッターとして期待されたが、腰痛に苦しみ、プロ7年の通算成績は324試合出場、打率・225、11本塁打、40打点。背番号33。1メートル91、99キロ(現役時代)。右投げ右打ち。

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