カンヌの恩人が逝ってしまった
2018年06月09日 10:00
芸能
30年近く前の話になるが、南仏カンヌ国際映画祭の取材で現地に赴く度にひとかたならぬ世話になった。とりわけ先輩記者からバトンを受けて行き始めた当初は一から十まで面倒を見てもらった。
寝泊まりは日本ヘラルド映画が借りてくれたアパートに厄介になった。他社の記者や映画ライターさんとの共同生活だ。1974年公開の仏映画「エマニエル夫人」や黒澤明監督の「乱」(85年)などの配給で知られ、ファンだけでなく多くの映画人に愛された会社だが、今では、そんな太っ腹な会社もないだろう。寺尾さんは、そのヘラルドの出身者だった。
ちなみにワープロもパソコンもまだまだ普及していない時代。原稿はプレスセンターからファクスで東京に送信したが、何と1枚目は日本円で3000円。2枚目から半額の1500円になり、3枚目がその半額の750円になる。そんなシステムとはつゆ知らず、請求額を見て腰を抜かしそうになった。
つい愚痴が出る。それを耳にした寺尾さんが「じゃあ、俺が泊まっているホテルのファクスを使いなよ。そっちの方が安上がりだ」と救いの手を伸ばしてくれたこともあった。上映された日本映画の評判が「ニース・マタン」など現地紙に掲載されると、それを訳してもらって原稿に生かした。さらに仏語圏の俳優のインタビューでは通訳もお願いした。
70年代には山下達郎(65)から誘われて音楽バンド「シュガー・ベイブ」のベーシストとして活躍した寺尾さん。その一方で、大好きな映画の研究を始め、NHKラジオの「フランス語講座」などを聴いて独学で仏語を習得。80年代後半から仏映画を中心に字幕翻訳をスタートさせた。デイヴィッド・クローネンバーグ監督の「デッドゾーン」(87年日本公開)やクロード・ルルーシュ監督の「遠い日の家族」(89年日本公開)はじめ、ジャンリュック・ゴダール監督作品など、劇場公開作だけでも200作以上の字幕翻訳を手掛けた。16年にデジタル・リマスター版で公開されたゴダールの「勝手にしやがれ」も寺尾さんの仕事だった。
音楽、そして映画に精通した寺尾さんの話は楽しかった。ミーハーなところもいっぱいあって、「アレ、どうなってるの?」と芸能界のゴシップに関心を示すことも少なくなかった。ここ数年は電話で話すくらいだったが、あの笑顔が頭から離れない。ヘラルド時代の先輩は「後輩に先立たれるのはつらい」とため息をつき、同期は「早すぎる…残念でならない」としのぶ。筆者は感謝しかない。
毎日新聞の出身で映画評論家の松島利行さん(5月11日死去、享年80)もそうだが、最近とみに仕事関係の知人の悲報が続く。いつまでも若いとは思っていても、筆者もそういう年齢になっているということだろう。合掌。(編集委員)
◆佐藤 雅昭(さとう・まさあき)北海道生まれ。1983年スポニチ入社。長く映画を担当。