八千草薫さん 朗読で語った戦争体験 故郷・大阪の関係者が秘話
2019年10月30日 05:30
芸能
回顧は第2次世界大戦下の小学校時代にさかのぼった。子供心に世の閉塞(へいそく)感を感じ取っていたが、中学入学前は「その年頃の娘らしく制服はどこの学校がステキだとか他愛もない夢(中略)に胸を膨らませ、春を待つ小鳥の思いでした」と語る。
戦時下で「聖泉」という漢字の校名に改められた同校に入学したが「戦争は私たちの夢をはぎ取っていきました」。八千草さんら生徒は「戦争のどんな部分に使われるのか分からない機械の部品を作る工場」に通った。
工場では丼いっぱいの白いご飯が食べられるという噂に「今考えると恥ずかしくなりますが、ろくな物を食べていない私たちの頭の中は湯気の立つ、白く輝くご飯でいっぱい」になった。だが、出されたのはご飯粒がほんの少しだけついた大豆。「今の飽食の時代でも私はご飯にどうしても特別の思いがあって、大好きで。あの頃のショックの結果かもしれません」と話した。
キリスト教に基づく教育を行う同校で、八千草さんはクリスチャンではなかったが礼拝の時間で感謝や自己反省、一日を大切に生きる勇気を持った。だが礼拝が禁止されるようになり、聖書も賛美歌集も戸棚の奥にしまい込まれた。「最後は戦災に遭った我が家と一緒に焼かれてしまいました」と、つらい体験を明かした。
終戦を迎えた1945年、校内でクリスマスのお祝い行事が復活し、聖歌隊に参加。「その時みんなで撮っていただいた写真が、私にとってやっとプール学院の学生になったという実感が生まれ、懐かしい思い出です」と、ようやく味わえた明るい青春時代を最後に振り返った。
朗読原稿は学院報に掲載され、残されている。大女優となった先輩が味わった若き日の戦争体験は、大切に語り継がれていく。
《浜村淳、人柄も素晴らしい》八千草さんと交流があった浜村は本紙取材に「名女優とは芸だけでなく人柄も素晴らしい。あんなに柔らかく他人に接する人は少ない」と悼んだ。
2012年、大阪市内の映画館「シネ・ヌーヴォ」が八千草さんの亡き夫・谷口千吉監督生誕100年を記念して特集上映を行った際、浜村が司会で八千草さんのトークショーを開催した。30分の予定が気づけば2時間たっていた。終戦1週間前に大阪市内の自宅が大空襲で焼けたことや、森繁久彌さんからプロポーズされたことも告白。自然を愛する八千草さんらしく「庭で狼を飼いたい」とも話したという。
同映画館の景山理代表によるとイベントだからと「交通費だけで来てくれた」という。