渡哲也さんがつないだカリスマのバトン 憧れ裕次郎さんを追い続けて 日本一のボスにささげた役者人生
2020年08月15日 05:30
芸能
7歳年が離れているが、誕生日が一緒(12月28日)の日本一のスター。憧れを抱きながら1964年に芸能界に飛び込んだ。初めての出会いは、日活でデビューした頃の食堂で。裕次郎さんは自ら席を立ち「頑張ってください」と握手を求めた。渡さんは生涯、後輩にも絶対に席を立ってあいさつをするようになるほど深い感銘を受けた。
渡さんは71年、ロマンポルノ路線に転じた日活を退社。複数社の争奪戦の中、選んだのは当時借金で倒産寸前の石原プロだった。
当時、渡さんは経営難に直面する裕次郎さんに、当時のサラリーマンの年収4年分にあたる180万円を差し出した。裕次郎さんが「ありがとう。哲。気持ちはいただくけど、これは引いてください」と言うと、返す刀で「じゃあ僕を石原プロに入れてください」。この時渡さんは最も慕う大スターに殉ずる覚悟を定めた。
石原プロは会社再建と経営安定のため、テレビドラマに本格進出する。その代表作が、渡さん主演で79年に始まった「西部警察」シリーズ。72年から裕次郎さんが出演した「太陽にほえろ!」シリーズと並び、石原プロの金看板となった。
「西部警察」で目指したのは「今までにないポリスアクション」(渡さん)。ド迫力のカーチェイスを実際に公道で行い、爆破もふんだんに盛り込んだ。角刈りでサングラスの刑事・大門圭介に扮した自身も、ヘリコプターから飛び降りたり、ヘリのドアを開けライフルを撃つなど、命懸けでアクションした。
それは、裕次郎さんが映画の世界でこだわり続けた「絶対に特撮は使わない」というポリシーに共鳴したものだった。裕次郎さんの死後も、ドラマでは体を張った、血の通ったアクションを貫いた。
裕次郎さんが亡くなった87年、石原プロ社長を継いだ渡さんは百カ日法要の仏前で「ボス、前途は厳しいでしょうが、今まで以上に心を合わせてやっていきます」と誓った。それから33年。芸能史に残るカリスマの魂を見事に後世に語り継ぎ、渡さんは旅立った。