異色の漫画家 藤子不二雄Aさん死去 88歳 描いた人生の奥深さ
2022年04月08日 05:30
芸能
偉大な漫画家の急逝を受け、自宅前には多くの報道陣が集まった。弔問に訪れたゴルフ仲間の田中菊雄さん(87)は「3月中旬に一緒にゴルフをしたばかり」と絶句。「腰が悪いと言っていたが、25日のコンペにも出る予定だった」と話した。生家である富山県氷見市の光禅寺では、親族の女性が「3月下旬に(おいの)住職がお経を上げに出向いた際は元気だったのに」と驚いた。
70代後半まで大病の経験はなかったが、12年に大腸がん、13年に腸閉塞を患うなど、晩年は病魔と闘った。80歳を過ぎても連載を続けたが、15年に心不全を患って以降は漫画を描いていなかった。
小学5年時に氷見市から同県高岡市に引っ越し、クラスメートの藤子・Fさんと出会った。ともに手塚治虫さんに憧れて漫画家を志し、雑誌へ投稿を続ける日々。当時から共作しており、高校時代の51年に毎日小学生新聞の連載「天使の玉ちゃん」でデビューした。
52年に富山新聞社に入社。記者をしていたが、藤子・Fさんに漫画家の道に誘われ上京。多くの漫画家が住んだ東京都豊島区のトキワ荘に住み、仲間と漫画づくりに没頭した。64年に週刊少年サンデーで連載が始まった共作「オバケのQ太郎」が大ヒット。初めてアニメ化もされた。共作はこれが最後で、藤子Aさんは「忍者ハットリくん」「怪物くん」、藤子・Fさんは「ドラえもん」「パーマン」などの作品を生み出した。
その後、藤子Aさんはブラックユーモアを扱い、人間の暗部に迫る作品を多く手がけた。自身がいじめられっ子だった影響で、いじめられる少年が主人公の「魔太郎がくる!!」では「うらみはらさでおくべきか」の決めぜりふで復讐(ふくしゅう)する姿を描いた。「笑ゥせぇるすまん」では人間の弱さや愚かさに焦点を当てた。
87年に藤子・Fさんの提案を受け、コンビを解消。作風の違いから、読者を混乱させることを防ぐためだった。大のゴルフ好きで、映画にも強い興味を持っていた。90年にプロデュースした「少年時代」では、多数の映画賞を受賞した。