追悼連載~「コービー激動の41年」その77 人生最後の優勝への険しい道のり
2020年05月03日 08:00
バスケット
このあとセルティクスはボストンでの第4戦と第5戦を勝って3勝2敗としている。結果論だがつくづく第3戦が惜しかったと思う。アレンが第2戦の調子のままにシュートを入れ続けて勝っていれば、このシリーズはここで終わっていた。だがそうはならなかった。
そして舞台は再びロサンゼルスに戻る。2勝3敗とは言え、レイカーズには地元ファンという力強い味方がいた。6月15日。第6戦は1万8997人を集めたステイプルズ・センターで幕を開けた。そして第1クオーターで勝負を左右するアクシデントが起こった。セルティクスの先発センター、ケンドリック・パーキンス(当時25歳)が開始7分で膝を痛めてプレー続行不能となったのだ。その第1クオーターでレイカーズは28―18と10点をリードする。ゴール下に208センチ、122キロの“壁”がいなくなったことで、オフェンスが楽になった。終わって見れば89―67で快勝。第3クオーターの終了時点で25点差がつく一方的な展開となった。チーム・リバウンド本数では52―39と圧倒。コービー・ブライアントが26得点と11リバウンドをマークすれば、パウ・ガソルも17得点、13リバウンド、9アシストというあわやトリプルダブルの活躍。パーキンスの離脱で始まった第6戦は、予想外の大差がつく結果となった。
泣いても笑っても残りは1試合。6月17日の最終第7戦は世界の注目が集まる一大決戦となった。有利なデータを持っていたのはセルティクスだった。なにしろ長年のライバル、レイカーズに対して第7戦では過去4戦全勝。このシリーズでレイカーズは○●○●●という流れから最終戦にこぎつけたが、2勝3敗からシリーズを逆転して頂点に立ったのは、この時点で過去6チームしかいなかった。確率的に皆無ではないが、勝つためには何か特別な力が必要だった。フィル・ジャクソン監督にとっては、ブルズ時代を含めてファイナル13回目の出場で初めて経験する第7戦。第6戦でさえ「もの凄い緊張感があった」と語っていて指揮官にとって、そこは未知の領域だった。
レイカーズの選手は奮闘。しかし1人だけ、この動きがぎこちない選手がいた。「必死になろうとすればするほど、なにもかもうまくいかなくなった」。そう嘆いたのは誰あろうコービー・ブライアント。肝心の第7戦で彼は23得点を挙げたものの、フィールドゴール(FG)を24本中18本外し、放った6本の3点シュートを全部失敗してしまった。第1クオーターは23―14でセルティクスがリード。やはり「データ通り」の結果なのか?レイカーズは大声援を受けながらも崖っ縁に立っていた
流れは悪く、レイカーズは第3クオーター途中でも9点差を追う展開。しかしパウ・ガソルが19得点と18リバウンド、ロン・アーテスト(のちのメッタ・ワールドピース)も20得点を稼ぐなど、この2人が不調のブライアントをカバーした。第4クオーターは30―22。終了間際(残り11・7秒)にスロベニア出身のサーシャ・ブヤチッチがフリースローを2本とも決めたところで83―79となり、背後にいたブライアントは左手でガッツポーズをしていた。そして終了のブザー。「頑張ろうとするとすればするほど結果が悪い方向へと行った」とブライアントは苦闘の末に手にした勝利に安どの表情を浮かべた。
レイカーズは2年連続16回目の優勝。ブライアントにとっては5個目のチャンピオン・リングで、優勝回数でかつての僚友シャキール・オニールを1つ上回ったこともあり「シャックより1つ多いから銀行にでも預けようか」というジョークも口にした。そしてこれが背番号24にとって人生最後の優勝となった。(敬称略・続く)
◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。