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阪神ドラ7中川は「自分の頭で考えられるキャッチャー」、配球も捕球も送球も創意工夫で磨き上げてきた

2021年12月11日 05:30

野球

阪神ドラ7中川は「自分の頭で考えられるキャッチャー」、配球も捕球も送球も創意工夫で磨き上げてきた
今年、春夏連続で甲子園に出場し活躍した京都国際・中川
 【阪神新人連載「猛虎新時代の鼓動」7位・中川】
 「勇」ましく、北「斗」七星のように輝いてほしいとの願いを込められて命名された勇斗は、3人きょうだいの末っ子として生を受けた。3650グラムのビッグサイズ。生後9カ月で歩き始め、10カ月で歩き回った。母・初美さんは、気を配るのが大変だったという。

 幼少期に夢中になったのはウルトラマンと飛行機。名古屋空港の近所、愛知県小牧市出身。上空を飛び交う、さまざまな機体を絵に描いた。両親にねだって関西国際空港に“遠征”したことも。この頃から高校入学まで、年末年始は家族5人の京都旅行が恒例行事。関西との縁は、当時から結ばれていた。

 3歳上の兄・龍世さんが小学3年から「小牧パンサーズ」でプレーしており、幼少時から野球に親しんだ。小学1年で入団が許可されると、ひたすら白球を追いかけた。低学年時は練習が土日の午前中だけだったが、それでは物足りず初美さんが監督に高学年組への練習参加をお願いするほどのめりこんだ。プレゼントにホームベースを、ねだったこともあった。初美さんは当時を振り返る。「“練習しなさい”とは一度も言ったことがありません。物心ついた頃から父、兄とキャッチボールばかりしていました。“早く家に入りなさい”とは何度も言いましたが(笑い)」

 自発的な姿勢が成長を助けた。暑い日も寒い日も、日課の素振りを欠かさなかった。寝る前にはあおむけになり、天井へ向けてボールを放り上げて捕球する動作を繰り返した。5年から本格的に捕手。6年時には「イチロー杯」で3位に入り、表彰式でレジェンドとの初対面も果たした。

 捕手としての基礎が形作られたのは中学時代の「愛知尾州ボーイズ」だった。当時は身長1メートル60前後で、指導した水谷邦彦ヘッドコーチは「身体能力はそこまで高くなく、プロなんてありえないと思っていた」と話す。ただし、「だけど捕手らしい独特の品格、雰囲気は持っていた。一言教えたらすぐのみ込むし、キャッチング、インサイドワークは抜け出ていた。マスク越しに目が動いているのがわかる」。広い視野、行動の数手先を読む捕手に必要な特性を備えていた。3年時の中日本大会では1試合2本塁打。それを京都国際の関係者が見ており、縁が結ばれた。

 そして高校で飛躍的進化を遂げた。1学年上に同じ捕手で2年時から主力だった釣寿生(オリックス育成)がいたことが身体能力の向上を促した。1年冬に「このままじゃ釣さんに追いつけない」と危機感を覚えて増量、筋力トレーニングに取り組み、釣に太刀打ちできる体を手にした。小牧憲継監督も「もしコロナがなかったら、去年の夏の時点でも釣を押しのけて捕手だった。中川は自分で考えられる。“監督がもうすぐこう言いそう”ということを読んで、それを実践していく。全く手のかかる子ではなかった」と述懐する。

 養った力を大舞台で発揮した。今春選抜の東海大菅生戦で二塁送球完了タイム1秒78を計測。当初はプロ志望ではなかったが、夏の甲子園で2試合連続本塁打を放ち自信も芽生えた。準決勝で対戦した智弁学園の小坂将商監督から「今まで見てきた中で一番の捕手」と絶賛されるなど周囲の評価も急上昇。阪神の指名を勝ち取った。

 捕手らしく創意工夫にたけた男でもある。巧みなフレーミングは「誰かが教えたわけではない」と小牧監督。高校の寮では月曜だけスマートフォンの使用が許されており、その際に勇斗は阪神・坂本や中日・木下拓のキャッチング動画を繰り返し視聴。自らに採り入れた。「憧れられる捕手になりたい。甲子園が本拠地になるのはすごくうれしい。必ず活躍します」。小牧市出身では初のプロ野球選手は、猛虎史に名を残す捕手を目指す。(北野 将市)

 ◇中川 勇斗(なかがわ・はやと)2004年(平16)1月27日生まれ、愛知県出身の17歳。小学1年で野球を始め、中学では「愛知尾州ボーイズ」に所属して捕手。京都国際では1年秋から背番号12でベンチ入りし、2年秋から正捕手。3年時に春夏連続で甲子園に出場し、夏の甲子園大会では2本塁打を放って4強入りの原動力になった。高校通算18本塁打。1メートル72、72キロ。右投げ右打ち。

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