中村俊輔氏 レジーナ移籍を決断させたサンドニの悲劇 “未知”乗り越え世界的レフティーへの道
2024年08月16日 05:00
サッカー
![中村俊輔氏 レジーナ移籍を決断させたサンドニの悲劇 “未知”乗り越え世界的レフティーへの道](/soccer/news/2024/08/16/jpeg/20240815s10002000423000p_view.webp)
「(00年)シドニー五輪で“自分もできるな”って感触から、(01年3月に)サンドニでフランス代表に0―5で完敗。チームとしてレベルの違いを見せられただけならよかったけど、その中でヒデさん(中田英寿)一人だけハイパフォーマンスで…。とりあえず海外に行かないとどんどん置いていかれると思った」
02年日韓W杯のメンバーからも落選し、危機感を募らせていた中、02年7月に舞い込んだのがレジーナからのオファーだった。「チームの情報はほとんどなかったし、(本拠地の)レッジョ・ディ・カラブリアってどこ?という感じだった(笑い)」
情報があふれている今とは違い、当時はインターネットもほとんど普及していない時代。それでも「今みたいに(移籍先の)選択幅がそもそもない。でもトップリーグでやれるし、自分を磨ける場所だと思って飛び込んだ」と移籍を決断した。
かくして決まった海外初挑戦。当然、想定外なことはたくさんあった。
「田舎のクラブだから練習場も1面でピッチも奇麗じゃない。移動のバスもひどいし、宿舎も毎回ボロボロ。ロッカールームなんて15畳ぐらいに全員いたんじゃない?そこに駄菓子屋のベンチみたいなのが置いてあって…。設備はJリーグの方が断然、良かった」
アスリートにとって不可欠な食事問題にも直面。「イタリア料理はおいしいけど太りやすいから、ふやけるわかめ的なものを日本から持って行ったり、お米を買って炊飯器で炊いたり」。現地には日本食材店もなければ日本食レストランもない。さまざまな工夫を強いられた。
もちろん、ピッチ上での苦難も。「シーズンが進むにつれ、セリエBに落ちない戦い方に変わってくる。ボールを持たれて守る時間帯が多くなり、なかなか自分のやりたいプレーが出しづらくなる。しかも自分みたいなタイプはバッジオ、デルピエロ、トッティみたいに決定的な仕事をしないと評価されない。外国人ということでメディアの評価も厳しい。それこそ、0か100の世界だった」
ただそんな厳しい環境で自然とハングリー精神が養われ、もがき苦しみ試行錯誤を繰り返したことで、1年目から31試合7得点5アシストと活躍。チームのセリエA残留にも大きく貢献した。見知らぬ世界に裸一貫で飛び込み、計り知れないプレッシャーと闘い続け一段と成長した俊輔氏。そのパイオニア精神は、今や続々と海を渡る日本人選手にも脈々と受け継がれているはずだ。