追悼連載~「コービー激動の41年」その76 ブライアントを驚かせたアレンの「病める心」
2020年05月02日 08:15
バスケット
その後、アレンはイングランド東部のサックスマンダム、米オクラホマ州のアルタス、そして日本でも知名度のあるカリフォルニア州エドワーズの各空軍基地で少年時代を過ごし、高校入学を前にして人口が2000人ほどしかいないサウス・カロライナ州中部にある小さな町、ダルゼルに落ち着いた。
地図を見たが、同州の州都コロンビアまで50キロ、港湾都市チャールストンまで150キロ、NBAホーネッツの地元シャーロット(ノース・カロライナ州)まで120キロ…。アレンが登場するまで、ダルゼルの町の名士と言えば「ラストダンスは私に」などの曲で有名なドリフターズ(日本のグループではありません)のメンバーだったビル・ピンクニーしかいなかった。
それでも基地には必ず体を鍛える施設があり、バスケットボールのコートはどの基地に行ってもあった。それが彼の人生を決める要因にもなった。イングランド訛りの英語は高校でもからかわれる原因になったが、そのエピソードは、ドラフト年度(1996年)が同じでイタリア訛りの英語でからかわれたコービー・ブライアントとよく似ている。とにかくサウス・カロライナにやってきた“ミリタリー・キッド”は運動神経抜群でたちまち有名になった。
地元のヒルクレスト高校ではバスケットボールに専念し、レベルの違いを同世代の少年たちに見せつけた。アレンは自分でも述懐しているが、とにかく自分が納得しない時には決して練習を止めなかった。そこが他の選手とは違っていた。ただしそこには病的な一面も見え隠れしている。
「病気なのか、そうでないのか…。自分はその境界線にいたと思う」。それがレイ少年が感じていた自分自身だった。もし本当に病気であれば「Obsessive―Compulsive Disorder」、日本語では「強迫性障害」と言われている精神疾患だった。不合理な行為や思考を自分の意に反して繰り返す症状。俗にいう「潔ぺき症」というのはこの範ちゅうに入る。
彼の場合、この病気の症状のひとつとされている「不完全恐怖」の初期段階ではなかったか…。猛烈な練習量はブライアントのように「無限の探求心」から生まれたのではなく、1本のシュートを外したときに壊れる「完全状態」を修復するための作業だった。だから「やらなくてもいいことをやり続けた」という感覚が彼の心の中にはずっと残っていた。
それでもアレンはその境界線をダークサイドへ足を踏み入れることなく歩き続け、結果的にシュートという特殊技能を高めることになった。2010年のファイナル第2戦でブライアントらを驚かせた精密機械のようなシューティングはこうやって生まれていた。(敬称略・続く)
◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。