追悼連載~「コービー激動の41年」その84 現役最後の1日を終えたあとの言葉
2020年05月10日 08:15
バスケット
「こんなことが起こるなんて思いもしなかった。(60得点は)ショックだよ。最高のエンディングは優勝。でもきょうはハードにプレーして残っているものをすべて見せたかった。最後にそれができたことがよかった。最も大切なのはこの試合でみんなに一体感をもってもらうことだった。みなさんのことは決して忘れない。本当にありがとう。心の底からそう思っている」
現役最後の試合で両軍最長となる42分間にわたってプレー。フィールドゴール(FG)は50本(成功22本)も放った。3点シュートの成功は21本中6本と精度を欠いたが、フリースローは12本中10本成功。そんな爆発的パフォーマンスを見せてNBAから去っていった選手は、過去も現在もいない。そしてたぶん“未来”も同じかもしれない。
バイロン・スコット監督(当時55歳)は「60得点を取っても驚かないよ。(ブライアントは)いつもの通りにプレーしただけ。彼にそれができることはわかっていたさ」と語っている。自らもレイカーズの黄金時代を支えた選手で、ブライアントとはデビュー年(1996年)の1年だけチームメートでもあった指揮官だが、目の前で“勝負師”に徹した背番号24の姿はいつも通りのブライアントだったようだ。
敗れたジャズのジョー・イングルスは「彼を自由にしたつもりはないが止められなかった。最後にやったことはとてつもなく衝撃的。乗りまくっていたね」と驚嘆。2006年にブライアントの81得点を相手チーム(ラプターズ)の監督として目撃しているサム・ミッチェル氏も「現役生活の終焉を迎えていたのにあんなことをやってのけた。老いたガンマンが最後の決闘をしているような感じだった」とNBA歴代2位の記録よりもラストゲームでの60得点を高く評価していた。
試合後の記者会見。ブライアントは言葉を選びながら自分の思いを語っている。
「この20年間、いつも“ボールをオレに回せ”とみんなに叫んでいたのに、きょうは“もうオレにパスなんかするな”だった(笑い)。戸惑ったよ。今夜の出来事を信じることはとても難しいな。以前のチームメート(オニール?)やファンや家族が僕を支えてくれたからこそこうなったのだと思う。じ~んと来る要因はたくさんある。試合開始前に通路から出てくるとき、“ああ、ユニフォームを着るのはこれが最後なんだ”と思ったし、この通路からコートに出ていくのも最後なんだなと思った」。
ひとつの時代が終わった1日だった。これから2年が経過した2018年に刊行された自著「マンバ・メンタリティー」ではほぼ最後のページにこの日のことが記されている。
「自分のオフィスからステイプルズ・センターときに“来るべき時が来た”と思った。着替えたときには憂うつだった。有終の美を飾れればいいなとは思ったけれど脚が重たかった。でもそこで笑ってしまった。だってそういえば試合前なんて、いつも脚が重かったじゃないか…とね。最高の日になるか最悪の日になるかのどちらかだなと感じたよ。20年もやってきたゲーム。最後のゲームが終わっていくなあという思いは少しあったけれど、やがてそんな感覚は消えていった」
戸惑った1日。それでもブライアントは自分を見失うことはなかった。現役最後の試合で見せた渾身の60得点。それは特別なことではなく、あくまで20年間やってきたことの繰り返しだった。(敬称略・続く)
◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。