追悼連載~「コービー激動の41年」その93 レイカーズ幻の本拠地はカンザスシティー
2020年05月19日 08:30
バスケット
それが元大リーグ・カージナルスの遊撃手で、その後セントルイスで実業家に転身していたマーティー・マリオンを含むグループ。このときすでにNBAシラキュース・ナショナルズ(現76ers)の買収に失敗しており、再チャレンジの対象となったのがレイカーズだった。
提示した移転先は、昨季のNFLスーパーボウルを制したチーフスの地元でもあるミズーリ州のカンザスシティー。やがてそこにはキングス(現在の本拠地はカリフォルニア州サクラメント)がやって来るのだが(1972~84年)、その前に腰を下ろそうとしたのがレイカーズだった。なぜならバーガーはこのオファーを受け入れたからだ。ただし条件をつけた。
「3月13日までに時価総額が15万ドル未満なら売りましょう」。さあ大変。ミネアポリス中がこの話題で持ちきりになった。最初に売却阻止に動いたのはバーガーに株を売ったマイカン。やはりチームへの愛着があったのだろう。自宅を抵当に入れ、私財を投げ打って一度は売った株を取り戻そうとした。ところがバーガーは「グループもしくは企業にのみ売る」としてこれを拒否。「やっぱりチームは出て行くのか…」。ファンはみんなそう思った。
だが救世主が現れる。それがミネアポリス・スター紙の編集局長を務めていたチャーリー・ジョンソン。なんと自社株の20万ドル分をバーガーに譲渡し、企業としてレイカーズの買収をすると申し出た。バーガー氏はこれを了承。この瞬間、時価総額は15万ドルを超えたのでマリオン率いるグループの買収は立ち消えとなり、ミシシッピ川中域への「引越し」はなくなった。やがて西海岸の人気チームとなるレイカーズは中規模の新聞社によって一時的ではあるが救済されたのである。
1958年。のちに殿堂入りを果たすエルジン・ベイラーという金の卵を獲得したレイカーズは久々に息を吹き返した。カンザスシティーへの移転も騒がれたが5シーズンぶりにファイナルに進出。セルティクスにスイープで敗れたものの、開幕前の売却騒動を考えれば、ファンも納得する結果だった。プレーオフに入ると観客動員が1万人を超えるケースもしばしば。前年まで平均2790人だったことを思えば「エルジン効果」はすさまじかった。
しかし後半戦に突入した1959年からチームは見えない敵と戦っていた。それが人種差別問題。当時のレイカーズにはベイラー以外にブー・エリス、エド・フレミングという黒人選手が2人いた。ミネアポリスならばチームへの理解があるから表面化することはなかった。だが一歩、外に出ると反応は違っていた。そういう時代だった。
まずホテルでのチェックインを拒否された。経営権を握って2年目に入っていたボブ・ショート・オーナー(CEO)は「ロードで試合を行うときには、チームは同じ場所に泊まるべきだ」として黒人選手を受け入れてもらえる郊外の小さなホテルに宿泊させたが、ウエスト・バージニア州チャールストンではベイラーがついにキレた。まさに騒乱状態。やがてブライアントというスターを生み出すことになるレイカーズは歴史の岐路に立っていた。(敬称略・続く)
◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。