追悼連載~「コービー激動の41年」その101 シャキール・オニールが歩んだ壮絶な人生
2020年05月27日 07:30
バスケット
トーニーさんはニュージャージー州セントラル高校時代、バスケットボールのガードとして活躍。州選抜にも選出されるほどの選手で地元の強豪、シートン・ホール大からも誘いが来ていた。のちにNBAセルティクスで主力センターとして活躍するデーブ・コーエンス(2006年に殿堂入り)とはピックアップ・ゲームで対戦。歯をへし折られたことがバスケ人生の自慢話でもあった。しかし高校時代から手を染めていたコカインとヘロインにおぼれて自らの将来を台無しにする。バスケ人生はここでピリオド。以後、人生は荒れ果てた。シャキールが生まれて6カ月後、麻薬購入の金欲しさに盗んだクレジットカードを悪用しただけでなく、小切手も偽造して逮捕され、ケンタッキー州レキシントンの刑務所で服役した。
刑務所に入ったり出たりの生活。トーニーさんはシャキールの親権を放棄し、高校時代のライバルチーム、シャバズ高校にいたフィリップ・ハリソンさんに息子を引き取ってもらった。ハリソンさんはバスケの腕前はそれほどでもなかったが人格者。それを知っていたトーニーさんが息子の将来をかつての対戦相手に託したのだった。
養父となったハリソンさんはトーニーさんのルシール夫人と恋仲となり、12歳で178センチ、そしてやがて216センチとなっていく怪童を育てあげた。そして全米で最も治安が悪い都市になったこともあるニューアークで子育てをするのはリスクが大きいと判断。軍隊での生活を選んだためにオニールはドイツやテキサス州サンアントニオの基地で育った。車を盗んだり、非行少年たちのグループとつるんだりしたことはあったが、そのつどハリソンさんに行くべき“道”に連れ戻され、それがルイジアナ州立大でNBAのスカウトたちの視線を集める結果にもなった。
トーニーさんの存在はオニールがNBAマジックにドラフト全体トップで指名されたあとにも注目を集めたが、オニールはかたくなに面会を拒否。「Biological didn’t bother(血縁関係は問題じゃない)」というラップの曲をハリソンさんに捧げ、靴ひもの結び方、バスケのやり方、人生の歩み方を教えてくれた養父をリスペクトする姿勢を貫いていた。
しかし糖尿病などを患っていたハリソンさんは2013年9月に死去。オニールは再び“父”を失ってしまった。ブライアントは同じくNBA選手だったジョー・ブライアント氏の下で英才教育を受け、フィラデルフィア郊外にある中流階級の家庭が多かった町で育ったが、レイカーズでコンビを組んだ怪物センターの人生はその対極にあった。
ハリソンさんを失ってオニールは自分の人生を探す旅に出た。警察関係につながりのあった親戚の力を借りてトーニーさんの居場所を調査。住所が判明するとフロリダ州オーランドの自宅から小型機でニューアークを目指したが、到着前に「すでに彼(トーニーさん)は引っ越していました」との一報が入りUターンすることになった。しかしその途中「レストランが入っているアパートに2階にいます」という新たな情報が入り、オニールはパイロットに「もう一度、ニュアークに行けますか」とリクエスト。そして会ったことのない父が待つレストランにたどりついた。目の前にいたのは自分より30センチ以上も背が低い初老の男性。オニールにはブライアントというNBAでの奇跡的なめぐり逢いがあるが、その一方で、自分の人生にも劇的な出会いがあった。
44歳にして初めて目にした実の父親。不安そうな顔をしたトーニーさんにオニールは万感の思いをぶつけた。(敬称一部略・続く)
◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。