パラ・アスリートの軌跡 ~障がい者スポーツ~
土田和歌子 トライアスロン転向で8度目パラへ 恐怖の波にのまれて…だからこそ決めた
2018年08月25日 05:30
スポーツ
「道が開けた、と思いました。採用されなかった場合も想定していました。目指すべき舞台があって、目標を定められるのはうれしい。半面、入らなかったクラスの選手のことを考えると、複雑な心境もあります」
車いすマラソンの第一人者は今年1月、23年間取り組んだ陸上から離れることを表明した。16年リオデジャネイロ・パラリンピックでは首位に1秒差の4位だった。
「リオでゴールした時は物凄く悔しかったけれど、過去2大会がふがいない結果だったので、走り切れたことやレース展開に満足感もありました。リオの後も、メジャーマラソンに挑戦する気持ちが強かった」
11月のニューヨークシティ・マラソンに出場したが、思わぬアクシデントに見舞われる。寒さも影響して、ぜん息を発症。せきが止まらず、呼吸困難になり、25キロでリタイアした。
「元々気管支が弱くて、風邪もひきやすかったけれど、ぜん息の発作は初めてでした。治療のために勧められて、始めたのが水泳です。以前からパラ翌年は他競技を練習に取り入れていて、ロンドンの後はボクササイズやボルダリングもしました。ハンドバイクにも興味があって、だったらトライアスロンだね、と」
昨年はマラソンに向けた体力強化の目的で、トライアスロン大会に出場した。4、5月の2大会で連勝し、幸先のいいスタート。だが、9月のロッテルダムの大会でショッキングな出来事が起こった。
「競技の面白さを感じ始めた時でした。海に漬かった瞬間、過呼吸になりました。これまで経験したことがない水温の低さで、波も高かった。恐怖心もありました。泳ぎだせず、そのまま引き上げられました」
マラソンのトレーニングの一環で出場した競技で、身の危険を感じるほどの恐怖の体験をする。だが、それが土田のチャレンジ精神をかきたてた。
「自分に向いているのか、続けていけるのか、悩みました。でも、スタートすらさせてもらえない競技なんてこれまでなかった。ショックを払しょくしたかった。これで終わりたくない、自分の可能性を広げたいと思って、転向を決めました」
正式に転向を決断した今年は、世界シリーズで2勝している。最初のスイムでは出遅れるものの、バイクとランで逆転する勝ちパターンが出来上がりつつある。
「優勝したレースも有力選手が全員出ていたわけではないので、まだまだのレベルです。苦手意識があるのがスイム。ハンドバイクとレーサー(ラン用の車いす)は共通する部分もあるけれど、乗る位置が前傾のレーサーと仰向けのハンドバイクでは全然違う。スキルの習得が必要で、トレーニングが忙しい」
東京パラに出場することになれば、夏冬合わせて8度目のパラリンピックになる。2年後は45歳だ。
「5年前に20年の開催が決まった時、まさかトライアスロンで目指すとは思っていなかったけれど、自分が選手である姿を想像してワクワクしました。挑戦に年齢は関係ない。きついと思うことはあるけれど、今の状況を受け入れることにしています。水泳を始めてぜん息もないし、体の調子は凄くいい」
競技転向は2度目。アイススレッジスピードレースで金2つを含む4つのメダルを獲得した98年長野大会に続いて、国内で2度のパラリンピックを経験する異例のアスリートとなる。
「98年は障がい者スポーツの過渡期でした。強化体制が整い始め、メダル量産につながりました。報道が増えたおかげで、街で声を掛けられたり、今までなかったことが生まれました。20年はさらに多くの方に知ってもらいたい」
20年は現在小6の長男・慶将(けいしょう)くんも会場のお台場に応援に駆けつけるだろう。ママさんアスリートでもあるレジェンドの目標は明確だ。
「目指すのは金メダルです。息子は“何で陸上じゃないの?”と言っていたけれど、今はトライアスロンを応援してくれている。生まれてからパラリンピックでいい成績を残せていないので、格好いい姿を見せたい」
▽パラトライアスロン 16年リオから正式競技になる。レースの距離は五輪競技の半分で、スイム750メートル、バイク20キロ、ラン5キロ。20年東京では8種目。車いす、視覚障がいのほか、運動機能障がいで比較的障がいの程度が軽いPTS5は男女双方を実施し、PTS4は男子、PTS2は女子だけを実施する。東京大会招致に尽力した谷真海(サントリー)の女子PTS4は採用されなかった。車いすの場合、ランは車輪を押して回す「レーサー」(競技用車いす)、バイクは手でペダルをこぐ「ハンドサイクル」をそれぞれ使用する。会場はお台場海浜公園。
【土田和歌子のこれまで】
☆1974年 10月15日、東京都清瀬市で生まれる。
☆91年 高2の時、交通事故に遭い、車いす生活になる。
☆94年 アイススレッジスピードレースを始めて3カ月で日本代表になり、リレハンメル・パラリンピック出場。
☆98年 長野パラでは金2、銀2のメダル獲得。その後、アイススレッジスピードレースが実施競技から外れ、陸上に転向。
☆2000年 シドニーパラではマラソンで銅メダル獲得。
☆04年 アテネパラでは5000メートルで金メダル、マラソンで銀メダルを獲得。
☆05年 コーチを務める高橋慶樹さん(45)と結婚し、翌06年に長男・慶将くん出産。
☆08年 北京パラでは5000メートルでクラッシュに巻き込まれて途中棄権。肋骨を骨折し、その後のマラソンも棄権。
☆12年 日本選手団主将を務めたロンドンパラでは5000メートル6位、マラソンは中盤で転倒して5位。
☆16年 リオパラではマラソン4位。
☆17年 初トライアスロンの4月のアジア選手権で優勝し、5月世界シリーズ横浜大会も制した。
☆18年 トライアスロン転向。