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【内田雅也の追球】甲子園100年の夢が輝く御来光 野球界の未来を創造する舞台は次の100年へ

2024年01月03日 08:00

野球

【内田雅也の追球】甲子園100年の夢が輝く御来光 野球界の未来を創造する舞台は次の100年へ
初日の出を迎える甲子園球場(1日午前7時21分、パノラマ撮影) Photo By スポニチ
 今から100年前、阪神電鉄専務・三崎省三は西宮神社に初詣に出向いた。1924(大正13)年元日である。
 「大正十三年甲子(こうし)之歳」と書かれた横幕や看板を目にとまった。十干十二支のともに先頭にあたる甲子(きのえね)の年で縁起がいいとされる。

 当時、阪神電鉄は社長制を敷いておらず、三崎は事実上トップ。前年、野球場建設を決断し、京都帝大(現京大)を出て2年目の野田誠三(後の本社社長・会長、球団オーナー)に設計を命じていた。元日に見た看板が後に「甲子園」と名づけるヒントになった。三崎の四男・悦治が書いた小説『甲子の歳』(ジュンク堂書店)にある。

 3月11日地鎮祭、16日着工から7月31日の完成まで4カ月半、大林組が突貫工事で仕上げた。開場式は8月1日だった。

 小説に当日の模様が描かれている。三崎は早朝に出向いた。<野球場に着くと、省三は、最初にメーン・スタンドの最上段に上って行った。人影はなかった>。<新しい野球場は大きな黄金の珠玉となって、大地に光り輝いて見えた>。

 100年後の今年、元日に甲子園球場を訪ねると、同じ光景があった。午前7時20分、初日の出は三塁側アルプススタンド後方から上ってきた。たなびく雲をオレンジ色に染めた。強い光は場内に差し、新春の淑気(しゅくき)に満ちていた。

 三崎は開場式で「皆さん、この甲子園大運動場は日本一であり、東洋一でございます」とあいさつに立った。小説にある言葉は三崎の日記に記された夢である。「私はここを日本のスポーツのメッカにしたいという夢を持っております」「どうか、このグラウンドが、日本の若人の体位向上と、不撓(ふとう)不屈の精神の作興に、少しでも役立ちますれば、この上もないよろこびと存ずる次第でございます」

 夢は現実となった。甲子園は高校球児のメッカであり、阪神タイガースの本拠地として、超満員の観衆が詰めかける、あこがれの聖地となった。プレーする選手たちは頂点を目指し、プロ野球や大リーグでの活躍につながっている。三崎が夢見た世界が広がっている。

 甲子園球場100年を祝いたい。夢とドラマが詰まった、野球界の未来を創造する舞台である。100年前の夢は、次の100年に通じている。 =敬称略=
 (編集委員)

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