追悼連載~「コービー激動の41年」その3 父が迎えた人生の岐路 長い旅の始まり
2020年02月19日 08:00
バスケット
それがイタリアのプロ・リーグだった。1984年から3シーズンはセバスチャン・リエティに所属。その後、レッジオ・カラブリア、ピストイア、レッジオ・エミリアと渡り歩き、結局、コービーは8歳から13歳までを父の赴任地でもあるイタリアで過ごし、そこでめざましい活躍を続けたジョーのプレーを目に焼き付けた。
セリエA(イタリア最上位リーグの総称)の1部と2部に所属したチームはすべてジョーにスコアラーとしての役割を期待し、ジョーはそれに応えた。ピストイアにいた1987年シーズンには1試合53得点という自己最多記録を2度マーク。NBA時代の平均得点が8点台だった選手とは思えぬ大活躍だった。だが在籍したどのチームもリーグ優勝には手が届かず、高校時代から注目を集めた未完の大器はタイトルとは縁がないままにプロ生活の幕を閉じた。
しかし息子にとって父の姿は常に脳細胞を刺激する存在だった。イタリアに移住する直前、コービーはすでに「リバース・ダンク」を習得していた。まさか?と思う方もいるかもしれないので謎を解いておこう。コービーは体操で使う飛び板を利用していたのだ。日本製よりもかなり高いジャンプが可能。ジョーの目撃談によればコービーはボールを持ったまま長めの助走をして飛び板から“離陸”し、グルリと反転してダンクを完成さえていたのだという。
日本の状況に置き換えてみよう。全国津々浦々、そんな8歳の男の子をどこで探せばいいのだろう?ダンクをやりたいという発想はあっても、道具を使い、しかもNBA選手のように背面から高さ305センチのリングにボールを叩き込もうなどという無謀なチャンレンジをする8歳の少年に出会える日はこの先、あるだろうか…。
スポーツや音楽などで才能が開花し始めるのは10歳前後。その多感な時期にどれだけいい訓練や指導を受けるかが、子どもの将来を決めるとも言われている。もしジョーがうだつのあがらないNBAにしがみついていたら、コービーの将来は少し違った方向に行ったかもしれない。しかし脳細胞が刺激を求めていた時、ジョーはバスケットボール人生のピークにいて、これ以上ない最高のプレーを息子に見せていた。コービーの才能を父の遺伝子だけに求める人もいるが、私はジョーがイタリアに行った人生の転換期こそが、最も貴重な“贈り物”だったような気がする。
もっともイタリアで少年がバスケをやるというのはけっこう難しかった。リングが設置されているコートはあった。ただしすぐに違う競技の練習場になってしまう。「2、3人なら言いくるめてバスケができたんだけど、11人、12人と増えてしまうと無理だった」とコービーは振り返っている。もうおわかりだと思う。そこはバスケの国ではなかったのである。そしてそれは彼の人生にとって最後まで切り離せない大事な思い出にもつながっていく。(続く)
◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。