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追悼連載~「コービー激動の41年」その33 ウエストが受け取った悲報

2020年03月20日 08:00

バスケット

追悼連載~「コービー激動の41年」その33 ウエストが受け取った悲報
北九州市小倉北区のメモリアルクロス(西村忠氏撮影) Photo By スポニチ
 NBAのロゴマークのモデルとなった元レイカーズのスター選手、ジェリー・ウエストの兄デビッドは、やがてウエスト自身が入学するイースト・バンク高校バスケットボール・チームの先輩でもあった。だがデビッドはバスケで抜きんでた才能はなく、ウエスト・バージニア工科大への奨学生枠(6人)には入れなかった。収入の少ないウエスト家である。デビッドは決断を強いられた。そして1947年に従軍。彼は朝鮮半島に足を踏み入れた。
 どんな時代だったかを振り返ろう。第二次世界大戦は終わっている。米国は朝鮮半島の南北分割占領を提案し、旧ソ連のスターリンはこれを受け入れた。1948年8月、ソウルで李承晩が大韓民国の成立を宣言すると、旧ソ連の後ろ盾を得ていた金日成は9月に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を成立させた。軍事力は北の方が優勢。米国はこの時、韓国を自国の防衛権に入れないと示唆していたので、朝鮮半島の統一を目指す北側は38度線を越えて南側に侵攻した。

 1950年6月25日の出来事である。俗に言う朝鮮戦争。現在も「休戦状態」であって終結はしていない。

 連合国軍のマッカーサー総司令官は日本の占領統治に集中していたのでまさに想定外。ここから激烈な戦いが始まった。最初は兵力に劣る南側が劣勢となった。マッカーサーは日本にいた駐留米軍を朝鮮半島に振り分けたが後手に回ったこともあって苦戦。私の故郷、福岡県小倉市(現北九州市小倉北区)には駐屯基地があったが、朝鮮半島へ派兵されるのを恐れた黒人兵士が脱走して、民家に立てこもるという事件も発生していた。我が家にほど近い足立山の中腹には、朝鮮戦争の戦没者を慰霊するために「メモリアルクロス」という高さ20メートルの大きな十字架がそびえたち、鎮魂の意をこめて朝鮮半島の方を向いている。そんな悲しい歴史を持つ戦場にウエストの兄デビッドは赴いたのである。

 戦争突入の5カ月前となった1950年1月9日。その日の消印があるウエストへの手紙でデビッドは「いい新年を迎えたことを祈っている。ひんぱんに手紙を送ることはできないが心配はするな。家の中では行儀よくしていろよ」と書き記している。おそらく家族を心配させないようにという思いで書いた手紙だったと思う。その頃、ジェリー少年は11歳。兄がなぜそこにいるのかを理解するには知識が乏しかった。

 開戦から43日目となった1950年8月6日。第35歩兵師団にいたデビッド上等兵は、敵の襲撃を受けながらも大砲を守り、敵の正確な位置を知らせ、その2週間後には負傷した仲間を救助した功績で表彰されている。助けられた兵士が上官に真実を告げての「勲章」だった。だがこの時点で米軍は窮地に陥っていた。最も違っていたのは武器の火力。弾薬の量は北側が圧倒的に上回り、これでは動きがとれない。デビッドが所属していた第35歩兵師団も厳しい状況に追い込まれた。

 ジェリー・ウエストは今年で82歳。1月26日にコービー・ブライアントがヘリコプターの墜落事故で死亡したときには、「彼はFAとなった2004年にクリッパーズへ行くつもりだった」というエピソードを語って再び注目を集めた。シャキール・オニールとの不仲の末にたどいついた決断だったが、レイカーズでの役職を離れはしていたものの、当時父親的な存在でもあったウエストがブライアントを説得。その翌日にオニールがヒートにトレードされ、この騒動は収拾へと向かったそうだ。

 ウエストにとってコービーのような“身内”の不幸な死はこれが初めてではなかった。1951年6月8日。彼は今でもこの日を忘れていないという。13歳になっていた少年の心にポッカリと大きな穴が開いた悲劇的な1日。父からの暴力に耐え、心の支えになってくれたデビッドがこの世を去ったのだった。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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