【内田雅也の猛虎監督列伝(23)~第23代 吉田義男】天国から地獄 「一丸」崩れ「一蓮托生」で幕

2020年05月13日 08:00

野球

【内田雅也の猛虎監督列伝(23)~第23代 吉田義男】天国から地獄 「一丸」崩れ「一蓮托生」で幕
1985年10月22日、優勝を決め、本拠地・甲子園に戻った阪神ナインはペナントを手に場内一周。吉田監督が後年、著書で「あの時に見た夕陽の美しさ」「不覚にも落涙した」と記した一場面となった Photo By スポニチ
 安藤統男辞任があった1984(昭和59)年10月12日夜、電鉄本社社長・久万俊二郎は西梅田開発室長の三好一彦を呼び、西本幸雄(本紙評論家)との会談を設けるよう指示した。本社内で球団社長・小津正次郎に加え、オーナー・田中隆造の退任が内定。新オーナーとして監督人選を進めたわけだ。
 ただ、安藤が辞任決意に至ったように、先に西本には非公式な接触はあった。そして西本はすでに辞退する構えを示していた。久万としては初対面となる14日、大阪・本町の大阪コクサイホテルで監督就任を要請した。16日は小津が宝塚の西本宅を訪問した。西本は18日に電話で、19日には甲子園の球団事務所に出向いて辞退した。

 この際、適任者を問われ「情熱あるOB」と答え「吉田も村山もいる」と先に吉田義男の名前を出した。吉田とは同じ関西テレビ解説者という縁もあるが、西本は後に「投手出身者より広い視野がある」と吉田を評価していた。

 これを西本の推薦として、久万は20日に「吉田に絞った」と三好に指示。三好は21日、日本シリーズ解説の広島から帰阪する吉田と岡山で密会した。大方の見方は新監督・村山実だったが、22日、田中は「わたしのわがまま」として吉田復帰を通した。23日、吉田の77年以来となる監督復帰が発表となった。

 吉田は1週間、電話に前に座り、コーチ陣組閣で元大洋監督の土井淳や前中日コーチの一枝修平らを集めた。「大目標へ、心合わせて一つになろう」と呼びかけ「一蓮托生(いちれんたくしょう)内閣」とした。前回監督時、一部コーチが離反した反省があった。

 メンバー編成では前年は股関節を痛め外野に回っていた岡田彰布を生かそうと二塁手に、二塁で活躍していた真弓明信を外野にコンバート。真弓を呼んで構想を告げ理解を得た。対話重視も前回の反省からきていた。

 不要論もあったランディ・バースは球団に依頼し残留させた。マウイ・キャンプは「ハワイは遊びに行く所」と主張、批判あるなか取りやめた。

 こうして、球団創設50周年、あの光輝に満ちた85年が幕を開けた。雌伏20年。勝利への渇望、悔恨と屈辱のマグマが噴出した。すでに語り、書き尽くされた道を吉田の側から、いま一度並べてみる。『監督がもいた天国と地獄』(エイデル研究所)、『阪神タイガース』(新潮選書)など多くの著書を参考にした。浮かび上がるのは挑戦や不屈の姿勢である。

 4月。開幕戦で隠し球にあい、コーチを含め全員の反省とした。岡田彰布は凡飛でも疾走し一塁から長駆生還してみせた。バックスクリーン3連発の1発目、逆転3ランのバースは不振で「外してくれ」と弱音を吐くのを励まし、信じた。同じ日、山本和行とのダブルストッパーに抜てきした中西清起が初セーブを記した。

 5月。デビュー戦敗戦の仲田幸司を再び先発させると完封で初勝利。便箋3枚の手紙を添えて監督賞を贈った。前夜、原辰徳にサヨナラ弾を浴びた福間納を同じ原にぶつけ、立ち直らせた。「勝負に弱気は禁物」と日記風のノートに記した。

 6月。札幌で失策の平田勝男を「もう一丁やってこい」と送り出した。一枝を通じ川藤幸三に「監督・コーチと選手の間のパイプ役になってほしい」と頼んだ。

 7月。首位広島との球宴前最終戦(岡山)。負傷の岡田に代え7番で起用した新人・和田豊が4安打で勝利に貢献。3ゲーム差で折り返し、球宴中の練習は活気がみなぎり、時間がたつのも忘れ夜10時まで及んだ。

 8月。長期ロード中、球団社長・中埜肇が日航機墜落事故で犠牲となる悲報にあった。翌日から6連敗を喫した。コーチ陣に「一丸」「挑戦」の姿勢を再確認した。

 9月。横浜で会食したバースは「優勝に大切なのは監督がパニックにならないこと」と言った。この月13勝5敗で広島、巨人との三つどもえから抜け出した。

 10月。ざわつく周囲に「優勝」は依然禁句とし気を引き締めた。歓喜の瞬間は16日の神宮、午後9時59分。投ゴロを中西が一塁送球した瞬間から記憶にないという。胴上げされ、抱き合った。雲の上にいる感覚だった。

 本紙紙面。阪神キャップ・合田重彦は<神宮に咲く“菜の花畑”老いも若きもタイガース>、作詞家・阿久悠は<黄金色のバイブレーションが 日本列島を駆けぬけた>と書き出した。猛虎フィーバーは社会現象となっていた。

 優勝後、甲子園に戻った22日の巨人戦。授与されたペナントを手に場内を一周した。超満員5万8千観衆が喜び合い、祝福してくれた。著書に<あのときに見た夕陽の美しさ><不覚にも落涙した><顔はグシャグシャだった>と記している。

 日本シリーズでは広岡達朗の「管理野球」西武を圧倒して日本一。ついに天国に上り詰めた。

 ただし<疑うべきなのだ。いまがピークなのではないか、と>と著書に記している。オフに<感激を味わった仲間だから>と解雇も補強も行わなかったのは自身の<甘さ>だった。86年にはすでに退潮が始まり、地獄への入口に立っていた。故障者も多く、勝率5割の3位がやっとだった。

 3年目87年はまさに地獄だった。開幕前、掛布雅之が飲酒運転で捕まり、久万は「掛布は欠陥商品」と非難した。次いでバースもスピード違反で検挙された。最悪ムードで開幕となった。

 4月25日に最下位に沈み、2度と浮上しなかった。コーチ・竹之内雅史は用兵を批判し、途中退団していった。

 投打とも低調で一時は100敗ペースまで落ち込んだ。オールスター戦で落合博満が「ここに阪神の勝率(2割6分)より低い選手いる?」と冗談を言うと、衣笠祥雄が「ここにいるぜ」。爆笑のなか吉田は笑えなかった。

 新聞に連日「吉田下ろし」が載った。「責任」を口にすれば「辞任」、コーチが「やってられんよ」と嘆けば「辞意」、腹立たしさに「お前ら」と怒ると「暴言」……。

 吉田は球団社長・岡崎義人とは別に本社常務・三好との会談を続けていた。球団筋、本社筋の2ルートが存在していた。

 三好が会談内容を記録した通称「三好文書」の最終回は10月9日。吉田は4年目への続投意欲を示す一方、コーチ陣再編成は認めなかった。「3年間苦楽をともにして今さら代えられない」と一蓮托生を貫いた。三好は「追ってのお沙汰を待ってほしい」と伝えた。

 3日後の12日、大阪・梅田の本社で開かれた緊急の球団役員会は実に8時間に及んだ。「タイガースの一番長い日」と呼ばれた。

 結果を受け、甲子園の球団事務所で岡崎に「世間体もある」と辞任を勧められた吉田は「解任で結構です」と答えた。社長室の壁には日本一の胴上げ写真が掲げられていた。会見後で一番の思い出と語ったのは、あの夕焼け美しい甲子園での場内一周だった。

 帰宅するとコーチ陣が集まっていた。拍手で迎えられた。=敬称略=(編集委員)

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