気がつけば40年(29)1990年の巨人 吉村のサヨナラ弾で決めた2リーグ分立後最短優勝

2020年11月03日 08:00

野球

気がつけば40年(29)1990年の巨人 吉村のサヨナラ弾で決めた2リーグ分立後最短優勝
吉村の劇的なサヨナラホームランで優勝を決めた巨人。1990年9月9日付スポニチ東京版 Photo By スポニチ
 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】40年前のことを書いていると思って読んで下さる方がいらっしゃるようですが、「気がつけば40年」というタイトルは、気がついたら記者になって40年が経っていたということからつけたものです。私が現場で遭遇し、取材した試合や出来事を時系列に沿って振り返っています。よろしければ、お付き合い下さい。
 巨人担当を離れ、プロ野球全体を見る遊軍記者になった1990年。前半は田淵幸一新監督率いるダイエー(現ソフトバンク)を中心に取材し、後半は主にセ・リーグで独走を続ける巨人のサポート役についた。

 マジックを2として迎えた9月8日のヤクルト戦(東京ドーム)。試合中に対象の広島が敗れ、マジック1となった。2―2で迎えた延長10回。先頭の原辰徳が浅い左飛に倒れ、吉村禎章が打席に入った。

 0ボール2ストライクからの3球目。川崎憲次郎が内角を狙った142キロの真っすぐはシュート回転して真ん中高めに入った。バット一閃。鋭いライナーが右翼スタンドに突き刺さった。史上初のサヨナラV弾である。

 優勝を決めた場合の1面は藤田元司監督で決まっていたが、急きょ吉村に変更。助っ人として控えていた私にお鉢が回ってきた。

 「何も言うことはありません。こんな凄い場面で打てて…。最高です」

 声を震わせるヒーローを見て、こみ上げるものがあった。
 吉村は1988年7月6日、札幌円山球場での中日戦。左中間に上がった中尾孝義の打球を捕球しようとした瞬間に中堅手と激突。4本ある左膝のじん帯を3本断裂するという重傷を負った。

 渡米してスポーツ医学の権威、カリフォルニア州ロサンゼルス近郊のセンチネラ病院、フランク・ジョーブ博士の執刀による手術を2度受けたが、左足の指先にはまだ神経が戻っていなかった。

 特製シューズでカバー。厳しいリハビリに耐え、ケガから1年で走ることも守ることもできるようになった。復帰戦は1989年9月2日のヤクルト戦(東京ドーム)。代打で登場し、二ゴロ。懸命に一塁へ走る姿は今も忘れられない。

 1990年は開幕から1軍。開幕直後はもっぱら代打要員だったが、次第に3番もしくは5番、ライトかレフトでスタメン出場することが多くなった。

 9月3日、原が復帰1年を祝う会を開いてくれた。東京・紀尾井町のステーキハウス「将門」。野手を中心に十数選手が集まった。その席で吉村は「無理かもしれないケガだったけど、少しでも昔の自分に戻りたい。少しでも昔の自分に近づきたいとやってきたんです」と話したという。

 その5日後の9月8日、昔の自分に戻った吉村が劇的な一発で1950年の2リーグ分立後、史上最短となるリーグ優勝を決めたのである。

 「ここまでいろいろな人が後押ししてくれたおかげです。来年に向かって凄くいい手応えになりました。いや、その前に日本シリーズですね。勝ちたいです」

 そう言ってインタビューを結んだ吉村。シリーズでもヒーロー原稿を書かせてもらいたかったが、それはかなわなかった

 リーグ優勝決定の44日後、10月20日に開幕したシリーズ。巨人自慢の投手陣がオレステス・デストラーデを中心とする西武打線にこてんぱんに打ち込まれた。

 第1戦は槙原寛己が6回4失点。第2戦はこの年2年連続20勝をマークした斎藤雅樹がわずか2回2/3、7失点で沈んだ。第3戦は桑田真澄が8回を7失点で3連敗…。

 前年は近鉄を相手に3連敗4連勝で日本一の座についている。第4戦、宮本和知に託したが、最後の砦も4回1/3を5失点と枕を並べて撃沈した。

 打線も第1戦は渡辺久信、第3戦は渡辺智男に完封を許し、全試合4点以上の差をつけられての完敗。屈辱の4連敗である。

 シリーズ開幕1週間前から川崎市宮前区のホテルで行った合宿中に士気が下がる事件があった。当時、リーグ優勝した場合は日本テレビから1勝につき1000万円の報奨金が出ることになっていた。

 その分配を巡ってリーグ断トツのチーム防御率2・83を誇った投手陣から「野手の方が査定がいいのは納得いかない」と不満の声が上がり、それを耳にした藤田監督が投手陣を集めた。

 「おまえら、そんなに金が欲しいのか。欲しいんだったら、これを持っていけ!」

 怒気を込めてそう言うと、100万円の束を3つテーブルに叩きつけたという。「球界の紳士」の対極にある「瞬間湯沸かし器」に一面が顔をのぞかせたのだ。それで萎縮したわけではあるまいが、投手陣にとっては何とも気まずい出来事だった。(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの65歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍でライブの予定が立っていない。

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