【鹿島ジーコ氏が語るJ30周年<2>】人口4万人の小さな町 “何もないからこそ”大切にした環境作り
2023年05月13日 08:00
サッカー
「いろいろな偶然が重なったんです。まず88年のキリンカップにフラメンゴ(ブラジル)の一員として来日しました。その後、88年か89年くらいに日本のトヨタ自動車工業サッカー部(現名古屋)から声を掛けてもらいました。ただ、当時2部だったトヨタは1部に上がれなかったことで、選手に対しての投資を躊躇したこともあり移籍の話はなくなってしまいました。
私は91年4月にブラジルのスポーツ大臣を退任したのですが、その1週間後に日本から話がありました。よく話を聞いたところ、2部の住友金属が1部を目指しているが、そこに来ないか?という話でした。日本サッカーがプロ化して、クラブとしても発展したいというので、ぜひ計画に参加してほしいということでした。それに賛同して来日しましたけど、3カ月ほど時間がほしいと言いました。現役引退してから時間が経っていたこともあって、自分の膝の状態が分かりませんでした。もし膝の状態が良くなかったら他の形で、何か日本に来てからできることはないかということを見極めるために時間をもらったんです」
――鹿島のこれまでの歩み、そして今後の課題は。
「私が来たときには4万人くらいの人口でした。クラブが一緒に発展していく上で重要なのは、魅力的なクラブ作りを町と一緒にしていかなくてはいけないということです。工場の町として栄えている鹿嶋は労働者が多くを占めています。いかにして外から来る人たちに対して魅力的な町づくりをしていくかが課題だったので、クラブにはジーコの名前だけを使って人を呼び寄せるのではなく、しっかりとした環境作りというのが大事だぞ、ということを伝えました。それは、どういうことかというと、何もないからこそ、鹿島で充実したサッカー生活が送ることが出来る環境(グラウンド、スタジアム)、サッカーに集中できる環境を整えなければいけないという様なことを言いました」
――来日当初の鹿島の環境と比べると今は。
「アントラーズは環境面がとても良くなりました。住友金属時代と比べると選手の数も増えました。クラブハウスも小さくなっていたこともあって、リノベーションを起こしたり、改装できたというのはクラブにとっても選手にとっても良かったですね」
――ジーコ氏にとっての鹿島アントラーズとは。
「鹿島というクラブは私にとって子どもみたいなものです。子どもは1人では成長できません。何かを成し遂げるためには、サポートも必要になるので一緒に歩んでいく必要があります。鹿島が今日まで歴史を築くことができたのも子どものように一緒に取り組んでこられたからこそ、このような結果としていま鹿島があるのではないでしょうか。また、2部だったクラブを常勝軍団に築き上げることができました。私がフラメンゴ時代、ウディネーゼ時代に学んだことを鹿島に継承できました」
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