【2000年シドニー五輪・柔道男子100キロ超級決勝】世紀の誤審…失意の銀に篠原が泣いた
2020年05月17日 05:30
柔道
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クレイグ・モナガン主審ともう一人の副審はドイエの有効を取り、電光掲示板にはドイエのポイントが点灯された。斉藤仁コーチが猛然と、「一本、一本」と声に出してアピールも、試合は続行。一度はポイントで並んだが、終盤に有効を奪われ、敗者となった。
試合で泣いたことのない男が表彰式ではずっとうつむき、目元を何度もぬぐった。「弱いから負けた。それだけです。(審判の誤審について)不満はありません。(ドイエは)強いだけです」。後味の悪い一戦の後、恨み言も、言い訳も一切しない柔道家の言葉が際だった。
もちろん、周囲は黙っていない。山下泰裕監督は審判団席に近づき、猛抗議。「技が高度過ぎて見抜けなかったのか」。国際柔道連盟(IJF)のジム・コジマ審判理事は「日本の言うとおりだと思う。ただ、試合は3人の審判が裁くもの。大変残念だと思う」と誤審を認めた。だが、畳を下りた後の抗議が認められるはずもなかった。
日本中が失意に暮れる中、地道な“ロビー活動”を続けた人がいた。当時の男子強化部長だった上村春樹(現在は講道館館長)だ。ドイエの背中が畳についた「証拠写真」を肌身離さず持ち、IJFの関係者に会うたびに見せ、尋ねた。「どっちが勝ったと思う」。すると、誰もが「勝ったのは青の柔道着の選手(篠原)で、負けたのは白い柔道着の選手(ドイエ)だ」と答えた。上村は何も判定を覆そうと思ったわけではない。二度と、このようなことが起きないよう、審判の質向上を強く訴えるための行動だった。
時間はかかったが、07年の世界選手権からIJFはビデオ判定を導入。12年ロンドン五輪では審判委員(ジュリー)が頻繁にジャッジに介入し判定が覆されるなど混乱も続くが、少しずつ改良を重ねている。
誤審を防ぐ意味合いもあるカラー柔道着はシドニー五輪で初めて導入された。JUDOへの転換期で起きた世紀の誤審。篠原の胸にかけられたのは、一石を投じる意味ある銀メダルだった。=敬称略=
≪代表監督後TVでも活躍≫シドニー五輪後も篠原は現役を続けながら、02年から母校の天理大柔道部監督に就任した。指導に専念しながら、2年ぶりに出場した03年の全日本選手権で現役を引退した。08年から代表監督にも就いたが、12年ロンドン五輪では日本男子史上初の金メダル0に終わり、辞任。タレントに転身した今はバラエティー番組などで活躍している。一方、ドイエは引退後、事業家として成功、政界にも進出。スポーツ相も務めた。
≪有働アナの涙の“抗議”も≫当時、NHKで現地キャスターを務めた有働由美子アナウンサーが涙の“抗議”をしたことも話題になった。現地のスタジオからの生中継で次第に感情が高ぶり、カメラから顔を伏せ、涙で声を詰まらせた。最後まで原稿を読み上げたが、約30秒にわたって顔を上げることができない異例の放送となった。それでも、NHKには好意的に受け取る声が多く寄せられたという。それほど日本中がショックを受けたニュースだった。
◆篠原 信一(しのはら・しんいち)1973年(昭48)1月23日生まれ、青森県出身、兵庫県育ちの47歳。中学1年から柔道を始め、育英高―天理大。1メートル90、135キロ(現役時)の体格を生かし、99年世界選手権で100キロ超と無差別の2階級制覇。00年シドニー五輪100キロ超級で銀メダル。02年に天理大柔道部監督に就任、03年に現役引退。08~12年まで柔道男子日本代表監督。13年に天理大を退職後、タレントとしても活躍している。