×

【内田雅也の猛虎監督列伝~<3>第3代・松木謙治郎(第1次)】入営相次ぐ辛酸期支えた酒豪の親分肌

2020年04月22日 08:00

野球

【内田雅也の猛虎監督列伝~<3>第3代・松木謙治郎(第1次)】入営相次ぐ辛酸期支えた酒豪の親分肌
戦前、戦後と2度監督に就任している松木謙治郎監督
 初代主将を務めた松木謙治郎は親分肌で酒豪、柔道三段で1キロのバットを振る怪力だった。「酒仙投手」西村幸生と年頭の広田神社参拝で神酒をおかわりした逸話もあるが「酒ではオレが三役なら西村は前頭くらい」と話すほど。選手からはオヤジと慕われた。
 松木は戦前、戦後と2度監督に就いている。戦前は入営・出征が相次ぎ、戦後は大量引き抜きがあり、ともに選手不足の苦しい時期に指揮官として奮闘した。まずは1940(昭和15)―41年の第1次監督時代を書く。

 39年限りで石本秀一が3連覇を逃した責任を取り退団。助監督の松木が選手兼任で監督に昇格した。30歳の若さだった。草創期から知る評論家・大井広介によると当時、球団専務・冨樫興一に総監督の肩書もあった。

 その著書『タイガース史』(ベースボール・マガジン社)で<秋風落莫(らくばく)>と題し、前年に藤村富美男、藤井勇、山口政信、この年は景浦将、門前真佐人らが入営、西村幸生が退団と投打の柱が抜け<もはや誰の眼にもタイガースは歯が欠け、爪をはいだ><かくて多難な辛酸期に入る>と書いた。

 日中戦争が長引き、戦時色が強まっていった。松木体制1年目の40年は紀元二千六百年の奉祝記念事業として、夏季公式戦を満州(現中国東北部)で開催した。

 帝国ホテルと並称された名門、甲子園ホテルで壮行会が開かれ、7月26日、神戸港から吉林丸で大連に渡った。大連の旅館では南京虫の襲撃に各チームとも閉口したが、プロ入り前、大連実業団にいた松木は食いつかれずにすんだそうだ。新京(現長春)、奉天(現瀋陽)、鞍山などを転戦し帰国は8月31日だった。

 9月13日発表の連盟新綱領で球団名称は日本語化され、タイガースは阪神と改称した。プレーボールは「試合始め」、選手は「選士」と呼ぶこととなった。使用球は毛糸にスフが混ざり、飛ばなくなった。1試合6個までと制限され、変形してもそのまま使われた。

 成績は40年が2位とはいえ、巨人と10・5ゲームの大差がついていた。

 翌41年は松木自ら<まさに虎変じて猫>という状態で創設以来初のBクラス5位に転落した。松木は辞表を提出した。不成績の責任と、徴用を受ける前に軍需工場に勤務する考えだった。球団会長・松方正雄から慰留されたが、12月8日の日米開戦で決心した。

 退団時、阪神電鉄本社で封筒を受け取り、近くのおでん屋での飲食代に1枚抜き出して払うと、釣り銭がないという。<よく見ると全部100円札だった>と驚いた。給料2年分にあたる、退職金7000円、重役から功労金1000円の計8000円を受け取った。

 知人の紹介で大同製鋼(現大同特殊鋼)大阪工場に勤めていたが、43年8月に召集され入営。沖縄に配属となり、すさまじい沖縄戦を生き抜いた。米軍捕虜となり過ごした体験記を書き残し、「ノー・モア 鉄の暴風」と記した軍服姿の写真を添えている。=敬称略=(編集委員)

おすすめテーマ

野球の2020年04月22日のニュース

特集

野球のランキング

【楽天】オススメアイテム