金子達仁氏 人生を変えたアステカの記憶 マラドーナは最初からマラドーナだった

2020年11月27日 05:30

サッカー

金子達仁氏 人生を変えたアステカの記憶 マラドーナは最初からマラドーナだった
神の子天へ――。86年、W杯メキシコ大会で優勝し、チームメート担ぎ上げられ、ワールドカップを掲げるアルゼンチン代表のMFマラドーナ氏(中央)(AP) Photo By AP
 【金子達仁氏・特別寄稿】“神の子”が天に召された。元アルゼンチン代表のスーパースター、ディエゴ・マラドーナ氏が25日、ブエノスアイレス郊外の自宅で死去。60歳だった。現地メディアによると死因は急性心不全。10月30日に60歳になったばかりで、左頭部に硬膜下血腫が見つかったため、今月3日に手術を受けていた。1986年W杯メキシコ大会で優勝の立役者となり、「神の手」「5人抜き」などの伝説を残したマラドーナ氏の死を悼み、スポーツライターで同大会を現地で観戦した金子達仁氏(54)が特別寄稿した。
 ボールを持った瞬間、ゴールまでのラインが見えた気がした。ディエゴ・マラドーナは、わたしにしか見えないはずのラインを、寸分の狂いもなくトレースしていった。

 後にも先にも、そんな感覚に陥ったことは一度もない。86年6月22日のエスタディオ・アステカで感じたのが初めてで、最後だった。

 ありえない願望は、現実のものとなっていった。タフであってもクリーンなイングランド人は次々とかわされ、飛び出したGKシルトンも置き去りにされた。自陣からマラドーナの左足一本で運ばれてきたボールがゴールへ流し込まれた瞬間、わたしの頭の中で強烈に何かが弾(はじ)けた。それは、周りにいた観客も同じだった。

 肌の色も違えば言葉も通じない、これ以上ないぐらいの他人同士が、最愛の恋人とさえ滅多(めった)にしないような激烈な抱擁を与え合う。誰もが絶叫しながら、誰彼かまわず抱きつく相手を探す。抱き合っては離れ、離れてはまた次の相手――。

 伝説の誕生を予感させたゴールへのラインを、あのとき、アステカにいた大学3年生のわたしは本当に見たのか。いまになってみると、ちょっと自信がない。あの瞬間、あの場面を生で目撃した興奮を知人や仲間に伝えるうち、もっともらしく話を盛ってしまった可能性だってある。

 ただ、事実にせよ脳内で捏造(ねつぞう)されたエピソードにせよ、あのゴールがわたしの人生を変えた、変えてくれたのは間違いない。文章を書くという行為の経験も才能もほとんどなかったわたしが、なぜか専門誌の入社試験(作文)をクリアすることができたのは、間違いなく、題材として選んだアステカの記憶、その稀少(きしょう)さによるものだっただろうから。

 ネット上には、マラドーナなんかメッシとは比べ物にならない、といった意見もある。わからないでもない。私自身、マシューズの偉大さを説かれても、ベストの凄さを熱弁されても、まるでピンとこなかった経験がある。最高の選手は最新の選手。それが、昔も今も変わらない若いファンの心理というものだ。

 ただ、間違いなく言えることもある。

 メッシは、バルセロナによってメッシになった。クリロナは、マン・Uやレアルによってクリロナになった。マラドーナは違う。彼は、最初からマラドーナだった。セボジータスでサッカーを始めたときも、アルヘンティノスでプロになったときも、79年のワールドユースで日本に来たときも、マラドーナは、すでにマラドーナだった。メッシやクリロナは成長することによって引き出しの数を増やしていったが、マラドーナの引き出しに、後天的に付け足されたものはほぼなかった――悪質な反則対策として覚えてしまったシミュレーション以外は。

 自国の偉大な才能が消えれば、どんな国民とて悲しみに暮れる。だが、いまだにマラドーナを神と崇(あが)める人が珍しくないアルゼンチンの人々が受けた衝撃の大きさは、察するに余りある。

 かつて作られた、この国の大統領夫人を題材としたミュージカルの主題歌は、「アルゼンチンよ、泣かないで」だった。どれほど従順な性格であったとしても、いま「don’t cry」という命令に従えるアルゼンチン人は、それほど多くないはずだ。(スポーツライター)

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