【内田雅也の追球】猛虎「4番サード」の遺伝子 佐藤輝“驚異の3発”の裏で復活期す大山

2021年05月29日 08:00

野球

【内田雅也の追球】猛虎「4番サード」の遺伝子 佐藤輝“驚異の3発”の裏で復活期す大山
<神・西(1)> 9回1死一、三塁、大山は左前適時打を放つ (撮影・後藤 大輝) Photo By スポニチ
 【交流戦   阪神10ー7西武 ( 2021年5月28日    メットライフD )】 阪神・大山悠輔が土壇場9回表1死、同点の左前打を放ったのは、この夜実に4度目の走者一、三塁だった。
 1回表は三振、3回表は三ゴロで走者を還すことができなかった。6回表は先頭で三直だった。先行していた試合は4―4の同点となっていた。

 もし敗れていれば、序盤の拙攻、特に4番を打つ大山に敗戦の責任が及ぶところだった。阪神の4番とはそんなものなのだと同じ「4番サード」を務めた掛布雅之や新井貴浩(現本紙評論家)も語っていた。

 掛布は「相手のエースの得意球を打つのが役目」とも語っており、ならば西武・高橋光成のフォークやカッターを空振りし、または凡打していた大山は仕事ができていなかったことになる。

 しかも、自身が3打席凡退の間に佐藤輝明が2本塁打していた。背中の張りで2軍にいた間「4番サード」を務めていた新人である。心穏やかであろうはずがない。

 だから、7回表2死、この夜3度目の一、三塁で勝ち越しの左前打を放ち一塁に駆ける際、何ごとか雄たけびをあげたのだ。1軍復帰4試合目で初めての打点だった。

 この日は「ミスタータイガース」藤村富美男の命日だった。1992年5月28日、75歳で他界した。藤村もまた「4番サード」だった。攻守走すべてに激しいプレーで「猛人」と呼ばれた。

 1948(昭和23)年、慶大―全大阪で主砲だった別当薫が大物新人として阪神入りした。開幕前の3大会9試合で6本塁打、ブームを巻き起こした。前年優勝の4番だった藤村は猛烈な対抗心を燃やしたのは有名な話である。

 別当は月給2万円だったと自ら明かしているが、藤村は3万円だと信じ込んでいた。「私より給料が良かった」と『戦後プロ野球史発掘』(恒文社)で語っている。「アレ(別当)より技術的に下なんだろうから、ひとつ年功で勝負してやろうという気持ちが私にはあった」

 藤村は別当より4歳上で、プロ入りは12年も先行しいていた。3番別当、4番藤村は翌49年、激しい争いの末、藤村が本塁打王を奪っている。

 阪神には「4番サード」の遺伝子があるようだ。大山は佐藤輝より4歳年長。プロ入りも4年早い。藤村の言うように「年の功」がある。4年長く、苦楽を味わってきたではないか。そんな人生経験が大山の強みとなる。野球は人生に似るのである。

 9回表、大山は自身の同点打の後、この夜3発目となる決勝3ランを放った佐藤輝を笑顔で迎えた。確かに衝撃的な3本塁打であり、その力量は計り知れない。ただし、大山の顔に浮かんでいたのは、内に秘めた対抗心だと見て取った。

 泉下の藤村も大山、佐藤輝の打ち合いを頼もしく眺めていたのではないだろうか。猛虎「4番サード」の物語は、これからがおもしろい。 =敬称略= (編集委員)

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