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【100歳 甲子園球場物語】大甲子園が沸いた「ベーブ・ルース狂騒曲」 39歳、現役最晩年の極東遠征

2024年07月02日 07:00

野球

【100歳 甲子園球場物語】大甲子園が沸いた「ベーブ・ルース狂騒曲」 39歳、現役最晩年の極東遠征
1934年11月、大リーグ選抜チームの一員として甲子園球場を訪れたベーブ・ルース。ボールボーイの帽子をかぶり、おどける光景もあった=毎日新聞社『別冊1億人の昭和史 日本プロ野球史』=
 甲子園球場に「野球王」「球聖」と呼ばれたベーブ・ルース(当時ヤンキース)がやって来たのは1934(昭和9)年11月24、25日だった。ルースは現役最晩年の仕事として日本での巡業に臨んでいた。なぜ日本に来たのか、なぜ甲子園で本塁打を打てなかったのか。そして、日本に残した功績を振り返ってみたい。 (編集委員・内田 雅也)
 ベーブ・ルースが甲子園球場にやって来たのは1934(昭和9)年11月24日、土曜日だった。大リーグ選抜軍と全日本軍との日米野球第13戦だった。

 スタンドは超満員で観衆5万とも7万とも伝わる。米国チームは15―3で大勝。ルースは4打数2安打(単打2本)に四球だった。翌25日は日米混成で試合を行い、3打数1安打(単打)に四球。ルースはじめ誰も本塁打は打てなかった。

 ルースは「Too large」と漏らした。「大きすぎる」「バカでかい」という恨み節だ。甲子園は広かった。それも一般に伝わる以上に広かった。

 永田陽一『ベーブ・ルースは、なぜ甲子園でホームランを打てなかったのか』(東方出版)にある。半年前の34年春、選抜大会を前に改修工事があった。アルプススタンドの前に6段の観客席がせり出したため、本塁はバックネット側に30フィート(9.14メートル)寄せた。その分中堅までの距離も伸びて420フィート(128メートル)に、左中間・右中間は448フィート(137メートル)まで広がった。公式資料はないが、『野球場大事典』の沢柳政義に製図を依頼し、割り出していた。

 ルースがバックネット前でボールボーイと並んで座る写真が残る。何カットかあるうちの1枚は隣の少年と帽子を交換し頭に乗せている。子ども好きで、ちゃめっ気ある、らしさが表れている。

 春夏の甲子園大会でボールボーイが採用されたのは29年。近所の少年がかり出された。胸に「KOSHIEN」、赤いストッキングのユニホームは憧れの的だったと「甲子園の土守」藤本治一郎が著書に記している。

 来日したチーム名「オール・アメリカン」はア・リーグ選抜の意味。ルー・ゲーリッグら14選手だった。日米仲介役のレフティ・オドール(ジャイアンツ)はナ・リーグ所属で出場資格のない助監督。総監督は背広姿のコニー・マック(アスレチックス)。ルースは希望通り、選手兼任で監督を務めた。

 当初、訪日を渋っていたルースにニューヨークの理髪店で交渉した鈴木惣太郎は彼の顔が大きくデザインされた宣伝ポスターを見せた。著書『日本プロ野球外史』(ベースボール・マガジン社)に<愛嬌ある自分の顔を見て、彼はふふふふっと大きく笑い出した。そのあと直ぐ「よし、日本に行く」と言い切ってくれた>とある。

 すでに39歳。同年は打率3割を切り、本塁打も22本止まり。60本(27年)など本塁打王12度の面影は消え、現役晩年にあった。

 佐山和夫は『ベーブ・ルースはなぜ日本へ来たか』=『日米野球裏面史』(NHK出版)所収=で<ベーブは一つの望みを持っていた。それは現役引退後は大リーグの監督になることだった>と書いた。日本巡業はそのアピールの機会だった。

 米国チームは16勝無敗、47本塁打を放った。ルースは13本塁打、33打点、打率4割8厘とすべてチーム最高の成績だった。この時の全日本軍を土台に巨人が創られ、タイガースなどプロ野球が誕生した。

 だが、帰国後、ルースの監督就任の希望をヤンキースは拒んだ。あまりに奔放で二の足を踏んだのだった。

 来日の翌35年、ブレーブスと契約。出場28試合、6本塁打で6月1日、現役引退を表明した。終生、監督の望みはかなわず、48年8月16日、がんのため永眠した。53歳だった。

 ルースが日本に残した足跡は大きかった。翌49年、阪神電鉄、甲子園球場は「野球王ベーブ・ルースの碑」を建てた。彫刻家・松岡阜はデザインする際、多くの写真から「自由の象徴のようで」と無帽のものを選んだ。

 2005年5月にはルース生誕の地、米ボルティモアの記念館にレリーフの複製品が贈られた。現在、甲子園球場外周に移設された記念碑には「日本に野球本来の愉(たの)しさを諭し、人々を熱狂させた」と刻まれている。 =敬称略=

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