Jリーグのホペイロ第1号の死 忘れてはならない日本サッカー発展への多大な貢献
2021年04月14日 08:30
サッカー
選手がいかにストレスなく試合に臨めるか、まさにプロだった。前泊のホテルに選手のスパイクを持ち込み、風呂場で徹夜で磨いて試合に間に合わせることもあったという。ラモスが試合用のユニホームを1枚もらおうとしたところ「これはクラブのものだから駄目だ」と拒み、大げんかになっても譲らなかったという。それぐらい職務には忠実だった。V川崎には98年まで在籍、01年には浦和でホペイロを勤めた後はブラジルに戻ってグアラニなどでホペイロを勤めていたという。ブラジル選抜のホペイロなどもやったことがあり、ブラジルでもトップクラスのホペイロだった。
ベゼーハさんが片言の日本語を話したのは、きょうたいが多かったために9歳から熊本県出身の日本人の農家で働いたからだという。日本で仕事ができて喜んでいたと思う。彼のお陰で日本にも用具を管理する重要性などが伝わった。注目されなくても、日本のサッカーの発展に貢献した人がいたことは、忘れないようにしてほしい。